あこがれのひと
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尊敬するひとはいる、
好きなひとも、一目置くひとも。
でもあこがれのひとはそういない。
あこがれのひとに話を聞きに行きました。

馬場多美子さん
秋田市民話の会
60歳を過ぎて仕事と母親の介護を終えたあと、馬場多美子さんは、以前から興味のあった秋田の方言を習ってみようと市役所に電話をかけました。紹介されたのは、方言を教える教室ではなく、昔話を語る人たちの会。
それからあちこちへ昔話を聞きに歩きました。それでも、長く仕事で共通語を使ってきた馬場さんには、なかなか方言が出てきません。ところがある日、語り終えた馬場さんに、司会の人が言いました。「馬場さん、なまってらね」。自分でも気づかないうちに、語りは秋田の言葉になっていました。

60歳を過ぎてから
結局この年になれば、自分の活動に関係のある本をついつい選んで見てしまうものだから。そうするとここが一番。方言とか昔話とか、子ども、私たちがやっている3歳未満の子どもたちの読み聞かせに関する絵本とか、紙芝居に関したものがいっぱいあるから、ついついここに来て、時間を費やしてしまう。気に合ったものがあればすぐ借りられるようにして。
私は60歳過ぎてから始めたんです。勤めてたし、介護もあったから、全部終わってから始めたんですよ。
もともと事務職なんです
もともと事務職なんです。ずっと。会計、庶務、すべて一人で。書類を作った後は、税理士さんにお願いして確認してもらって。職場の社長さんが私に任せてくれて、長くそこに勤めさせてもらうことができたんです。
誕生日が来て75歳。だけどね、70過ぎてからは歳を聞かれるといつも、「はい、そんま80です」。方言で「そんま 」は「間もなく」っていう言葉。
勤めてる時は共通語でしょ。電話の対応であれ来客であれ、共通語で話すじゃない。社長がお客さんから言われるんですって。電話を対応した方に伝えてくださいって。何を? って言ったら、電話の対応と声がすごくいい。社長はやっぱり自分の職員が褒められると嬉しいでしょ。 次の日職場に来れば私のこと「あね」。 田舎の言葉でね、娘のことを「あね」。 「あね、おめどさしゃべったど。どこそこの社長、こうやって言ったがらな。しゃべったど」。どう褒めてたとは言わないの。「どこそこの社長、おめどこ良いって言ったがら言ったど」。みんなの中でお前のこと良いって言ったからな。ただそれだけなんだけど。
顔がにこやかだから、社長も褒められて嬉しかったんだなって。勤めて40年もいたけど、相手次第で一度も態度を変えることなく対応してたの。だからある意味事務的って思う人もいたかもしれない。親しく話すことは一切しなかった。それを社長が信用してくれたんだなって。
だから従業員が外からいたずらして電話をかけてきても、途中で声で分かれば私の態度がコロッと変わるでしょ。そしたらばね、「なんで変わるの?」って。「だっておめどこ分がるからな」。「なんで、極端に変わらないでよ」。そんなね、バカな話をしたりして。でも嬉しかった。そう言ってもらえるだけで。
何もすることがなくなって、方言を習おうと思った
ところが介護が入って60歳で退職。丸1年病院通いでした。私の父は私が小学校の時に他界しています。それで母を看取るために仕事を辞めたんです。社長に言われました。仕事しながら介護もしていたので、社長は「今まで好きなようにやらせていたでしょ」と。「なんで辞めるの?」って言われたんです。ありがたいと思った。でもみっちり病院に付いていなければ。

仕事を辞め、介護も終えて何もすることがなくなって、初めて何をしようかなって。つまらないし、市役所に電話をかけたの。方言にもともと興味があった。どこかで教えてくれるところがないかな。それで電話をかけたら、方言を教えてくれるところはないけど、方言を使って昔話をしている会があるから、そこに電話してみては? ということで電話をかけたんです。それで何日にどこそこで昔話の語りがあるから聞きに来てって言われました。
方言を聞きに行って、終わったらミーティングあるって言うの。参加しなさいって。 会員ではないのにって思ったけど、まあ聞くだけ聞こうかと座ったらね、「今日入りました」と紹介されて「秋田市民話の会」 に入りました。
外で遊びたい子供
1952年、昭和26年に川尻で生まれて、その時は父と母、私を含めて 4人兄弟がいました。 お兄ちゃん 2人。下に妹が 1人。私は小さい時から自由奔放だと妹はよく言います。食べることは好きだし、外で走って歩いて遊ぶのは好きだけど、お料理とかお裁縫は一切できなかった。川尻小学校に入ると、家庭科っていう科目があって、やれば縫い目はバラバラ、とにかく下手くそなの。それとお料理ができなかった。私は母の手伝いをあんまりしなかったな。とにかく駆けっことかそういうのが好きだった。
じっとしてるのが嫌いだったの。田んぼのあぜ道っていうところを通って、八橋運動公園まで歩いて行った。そこへ行けばまた遊びだし、とにかく遊ぶことが好きだった。 八橋公園では特別これっていう遊具がないでしょ。当時は唯一滑り台があったんです。 滑って遊ぶのも好きだったの。 そこが山になってるから、上がったり下りたり、とにかく走って歩く。

これがこうだから、こうなる
勉強は嫌いだった。 だけども、別に落第ってことはなかったね。私は数学が得意分野だった。 どういうことなんだか自分でもよく分からないけど。担当の先生が計算の仕方を順序よく教えてくれたってこと。
そう、基本的なこと。ただ足して引いたり掛けたりするんじゃなくて、こうやってこうなるからこうだよっていう順序立てた教え方をしてくれたから覚えやすかった。そういう先生に巡り会えたってこともあったんだと思う。学年に応じて先生が変わっていったけども、最初に覚えた基本がずっと後までつながってるから。知らず知らずに数学の考え方の基礎力がついたんでないのかなって。
それを職場に行っても、使えたんじゃないのかなって。忘れてるはずなんだけども、仕事をしてまたそれが蘇って使えたんでないのかなって思うのは年取ってから。とにかく仕事だけはきちんとしなきゃなって。 何と何と、これをやったら次はこれ。ここ終わりましたら次はこれ。今日はここまでできたから、この残った分は明日この時間帯する。この時間帯にはこれがあるからあれは除いて、じゃあ次はどうしようか。順序立てた考え方というのかな。おかげで社長が信頼してくださったというのはちょっと語弊があるけど、でも任せてもらえたっていうのは感謝しています。
私は苦労したっていう気持ちが一つもないの
中学校は川尻中学校。その当時は大きな山王中学校はできてなかった。まだ人が多かったから、それなりに小学校、中学校が各地域にあった。
もうその時は片親だったでしょ。父が10歳の時に他界したから。お酒飲みだったから。腎臓を壊して。入院して何ヶ月もいないで。
母が田んぼをやりながら。 でも一人じゃできないから、近所や知り合いから手伝ってもらってやった。今で言う小作人だから、売ったわけじゃない。食べるだけ。私、苦労したとかそういう記憶は全然ない。母は辛いとかそんな顔を見せたことがない。常にそういうふうに私たちには見せていたから、私はこの通り脳天気だから感じ取れなかった。ご飯はちゃんと食べられたから余計人の苦労って知らなかった。
親戚の一人が言ってました。どれだけ苦労したか覚えてるかって。知らないよって。お母さん陰で泣いてたんだよって話をされて。え、そうなのって。
母が 46歳で、私が高校1年の時、当時の病名で子宮がんって言われたんだけども、養生すれば 3年、良くて 5年は長生きできますよって。入退院を繰り返しながら、私たち以上に周りの人たちが、地域の人が手を貸してくれました。
一番苦労したのは兄だと思う。兄は今も実家にいるけども、仕事と農家と兼業して動いていたから、地域の助けがないとできなかったし、そういう意味では兄が一番。私が特に恵まれていたというのは、人に恵まれたっていうのは、そういうことを言ってるの。
本荘高校
そんななか先生がね、もし高校落ちたらどうするかって。浪人できないでしょって。だから 1ランク下げて受験しなさいって。そう言われたの。私、共学に行きたかった。南校がダメなら秋田市でなくていいって。それで本荘高校に行ったの。
たまたまうちの兄の勤め先に本荘から来てる方がいて、そこに住所を借りて、受験して入った。変わったことしてる。
当時は7クラスありました。7プラス商業科と夜間クラスもあるからかなりの人数です。1クラス40人以上いたと思う。1時間汽車で通学して。宿題は家でやるけど、それ以外の勉強は全然。
私が4月に入学して、5月に母ががんを発症して正月まで入院したの。担任の先生に入ったばかりで申し訳ないけど辞めるって言ったら、まず頑張ってくださいって。クラスの人たちも声をかけてくれて。それまで家事もしたことなかったの。みんなに手を借りてやって、高校卒業したって感じ。やっぱりいろんな意味で今振り返れば人との縁だなって。
だから周りでね、大変だったねって言われても、え? って。私自分では苦労だとか大変だったとかって一つもないの。これだけ周りのみんなが私に手を貸してくれたからだと私は感謝してるの。だから私であれば、今まで人に恵まれてって言えるのは、そういうこと。
これもまた、縁だと思っています
本荘高校には秋田の勤め先の募集が来ないの。それで母が入退院を繰り返していた病院の院長先生が、じゃあうちの病院に来て何かやりなさいって言ってくれて。最初は病院に入ったの。看護の経験も何もない。1年ぐらいしたら、新潟に知ってる先生がいるから、新潟で勉強しておいでって言ってくれたけど、母がいるから、私はなんとなく行きづらい気持ちもあったので行かなかった。だからある意味少しは介護のこと、看護っていうのかね、院長先生が病院の部屋で好きなだけ本読んでいいって言ってくれたおかげで。
これもまた縁だと思っています。どんな時でもいろんな人との出会いが、どこでどう自分にとっていいほうに傾いているのかは、自分では気がつかないから。

忙しく仕事してるのが好き
結婚は、私、25歳の頃。 職場の人と。男の子が2人生まれましたが、産休ってば、昔は床上げって21日目、3週間。そこまでは今でいう産休。爺さんと婆さんがいたから、家のことをきちんとしないで出歩いても困るって言われましたよ。夏は4時ってば明るくなってくるでしょ。そして冬場にかけてだんだん春までの間は4時だって暗いでしょ。私は4時には起きて、家の中のことをして洗濯して。子供たちが幼稚園に行くようになれば、幼稚園に送り出して、そして勤めて。仕事を辞めるって気持ちはなかった。
何が一番大変だった? って聞かれれば、子供たちが高校生に入って冬場に自転車通学できない時期があるでしょ。そういう時にね、車で送っていく。仕事を抜けて、こっそり迎えに行ったりしたことある。嫁いだ先が金足線ができるまでは山と田んぼばかりでバスの便も悪くて。
私は家から出れば職場のことしか頭にないし、職場を出ればうちの子供にこれしてあげなきゃならないとか。頭が切り替わるっていうのかな。
苦しさを表に出したことがないから、母の苦労も知らないでいたって言ったでしょ。最後の1年も、痛いとか顔にも言葉にも出さない人だったの。だから私は、母は管が入っているし、起き上がれないから、朝うちのことをやって片付けば病院に行って、あとお昼ちょっと買い物して家に置いて、また病院に行って、夜ご飯の支度するために家に戻るけど、消灯までまた病院にいる。亡くなる直前まで言葉をはっきり話せた人なの。病院のほうでも本当に良くしてくれました。私はわがまま言わせてもらって。
病人っていうのは、言葉に出さなくても待ってるもんだよ
3ヶ月入院して、半年退院して、また半年入院して3ヶ月退院して、そういう繰り返しが長かった。私にも行き来のサイクルがあるでしょ。 分かっててさ、ずるくて。「 何これ、看護師さんからやってもらえるんでしょ?」って私が怒るでしょ。「だっておめ今来るべ」って。
何のことか分かる? オムツなんか濡らしとくの。看護師さんがやってくれるのに。「いい。今娘来るから」って。それ私よ。だから病人っていうのは言葉に出さなくても待ってるもんだよっていう話はよくする。私が入院しないから分からないかもしれないけど、息子たちにそういう話はする。
「それだば私何よ。めらしが」
6人部屋からいよいよ個室に移る前の日、母が仰向けに寝ていて、私が右側にいれば兄は左側にいる。その日に限って、兄のほうに体を起こしてくれって言うわけ。重くて一人で動かせないから、少しだけでも体動かした。その時私言ったの。「なんでひどいことを毎日お手伝いさせるんだ。今日に限ってなんでそっちに向かせろって言うの?」って。そしたらね、うちの長男だから一番大事な人だからって。「それだば私何よ。めらしが」って言ったの。「めらし」はお手伝いさんのことだよね。でも兄の方に向かせてやったの。それが最後。
その次の日の朝、1人部屋に移しますと病院に言われて。移して、夜また来るからって病院を出た。母はあともう声が出なかった。それまでちゃんと話してたの。痛いとか苦しいとか言わないけど、おしっこの色を見れば分かるのよ、もう長くないって。胆汁の色ってわかる? 胆汁っていうのは胆嚢から出る緑色の濃い色。それが尿に混ざって出るようになる。
そしておしっこの流れが悪くなると足が浮腫む。そういうのを見てるから、うーん、これいつまでかなって思ったの。そしたらやっぱり今日個室に移すからねって言われて。
亡くなる日の朝かな。4時頃、看護師さんに、ちょっとご飯用意してくるからお願いしますって言って、うちに行って戻ったら、足の指の先が紫色になってたの。これはだめだって。今日一日持たないかなって思ったの。それで今日いい天気だからなって声かけて、熱いお湯のタオルで拭いたら足の紫が取れたんだ。
とにかく聞き歩いた
「秋田市民話の会」に聞きに行った日に入会になったでしょ。だけど全然、方言って分からないです。ずっと長いこと共通語で仕事していたから、方言を使わないから方言が出てこない。1 年間は聞きに歩いてくださいって言われて。自分たちの会だけじゃなくて、他の地域でもやってる会があるから、それをあちこち聞きに。
今だと私が所属してる「秋田市民話の会」のほかに、秋田県全域から語り手が集まっている「あきた民話の会」などもあります。 大仙のほうにもよく行ったの。いろんな方言を少しでも聞きながら、あ、あの言葉聞いたことあるな、この言葉聞いたことあるなって思いながら、ずっと聞き歩いてたの。聞きながら歩いて、ものを考えて、ただただ聞き歩いてた。
「あぇ、馬場さん、なまってらね」
1年過ぎてから私が入った秋田市民話の会の代表が語りをやってみれって言ったんだけど、それでも方言が出てこない。共通語で書かれている昔話の本を、自分の知ってる自分の言葉で語るしかない。
でも会員になって3年目の中頃かな。自然に方言で語りをしたんだって。自分でも記憶がないの。
自分では気がつかなかった。 語り終わったら、その日当番のベテランの司会進行の人が「あぇ、馬場さん、なまってらね」って言ったの。あの当時は、会場にお客さんが100人もいる時代だった。今のフォンテね※。
※フォンテAKITA6階「あきた文化交流発信センター ふれあーるAKITA」

脚ガクガク、心臓バクバク
それまではところどころに方言は混じるけども、教科書を読むような語りしかできなかった。自分の椅子のところへ戻るとき、私ってあがり症で、終わった途端に脚ガクガクなんだもの。私もびっくりしたの。「秋田弁しゃべれたねが」って言われて、え? って感じだった。
そこからは、できるようになったっていうか、自分で知らない間に話すようになった。自分でも不思議だよ。だから今は逆に共通語で話すっていうのが難しいの。訛りが出るから。60歳で始めて、話せるようになったのは 64歳くらいの時。
前にいる人の顔が、見えるようになった
5、6年経ってから、だんだん前に座ってる人の顔が見えるようになってきたのよ。表情の変化が見えるようになって、あ、この人には今話が伝わったから頷いてくれてるんだな、というのが見えるようになったの。それまでは全然人の顔が見えなかった。それでも、終わればやっぱり脚がガクガクして心臓がバクバクするのは今も同じ。何年経っても同じ。
お孫さんに聞かせてあげて
何か語ってって言われてすぐ出てくるのは6つか7つぐらい。定番っていうか、簡単に出てくるから。一番が「亀の甲羅」。高齢者に対しては、お孫さんに聞かせてあげて、簡単だからねって言って語ります。短いし、すぐできるから。幼稚園に頼まれて行く時も、それをやったら子供たちが真剣に聞くの。 うれしいね。

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『秋田の昔ばなし』〜未来に語り継ごう
日時:2026年10月31日(土曜)10:00-12:00(受付09:30〜)
会場:仁井田地区コミュニティセンター
語り部:馬場多美子
申込み:地域マイスターやどめ事務局(担当:加藤)TEL:090-2361-8139
写真:オジモンカメラ/高橋希
聞き手:熊谷新子
デザイン:谷戸正樹