あこがれのひと
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尊敬するひとはいる、
好きなひとも、一目置くひとも。
でもあこがれのひとはそういない。
あこがれのひとに話を聞きに行きました。

寺田和子さん
秋田県現代詩人協会事務局長
詩誌「歴程」同人 詩誌「密造者」同人
秋田で長く国語教師として教壇に立ち、現在も詩を書き続ける寺田和子さん。詩集の刊行や、詩誌「歴程」「密造者」の同人として活動する一方、退職後に昔話を学び、語りの世界にも親しんできました。1944年に生まれ、戦後の角館、土崎で育った幼い日々、本を読むことが何より好きだった少女時代、「私」という言葉をうまく口にできなかった中学生の頃。そして、ひとりの国語教師との出会いから、生きていくためのよすがとなった詩のこと。忘れられない記憶をお話しいただきました。
1944年、大雪の日に生まれて

私の生まれた1944年というのは、6人家族が急にたった3人になった年です。2月に父方の祖父が亡くなって、5月に私のすぐ上の姉が亡くなって。まだ3歳にならなかったそうです。そして6月に父親が召集されて、朝鮮半島に行ったんですね。
姉がたぶん7つかな。小学校1年生だったと思います。兄がその2歳下なのでまだ保育園。母親はお腹に私がいる時にそういう状況になったので、心細くなったらしくって。土崎に母のすぐ上の姉が嫁いでいたので、転任願いを出して土崎の小学校に転勤しました。あの当時は産休というのはあまりなくて、生まれる何日か前まで仕事してるんですよね。
私が生まれる時は、母の姉のところにまず3人転がり込んだ形で。そこのうちにも子供が4人いたんです。だから、すさまじく大変な状態だったらしいです。そんな中で12月7日に生まれました。
生まれた日はね、暦で言うと「大雪」と書いて「たいせつ」の日です。やっぱり大雪で、産婆さんが「こんた日に生まれるわらしあるもんでね」って言ったそうです。その年が明けて8月に終戦ですものね。
父親は病気がちな人だったので、兵隊として役に立たないということで内地に帰されたんです。それで能代から角館の旧制中学に転勤になって。父親は私たちが引っ越したことも知らず、能代に行ったら誰もいない、真っ暗だということで、ずっと中まで行ったら大家さんがいらして、それで越したことが分かった。
それやこれやで、結局母親も角館に転勤することになりました。1945年の3月ですね。だから私は、生まれて100日で土崎から角館に。
土崎の空襲には遭わなかった。角館に移ったから。でも角館から見えたそうですよ。空が真っ赤に見えたって言ってました。母の姉のおうちは大丈夫だった。下酒田町なんですが。でも、いとこが言うには、同じ6年生の男の子が一人亡くなってるんですね。大変だったみたいです。私自身は、聞いた話でしか覚えていないので。
姉と兄と3人だけの暮らし

今日は姉と一緒にチェンバロのコンサートに行ってきました。姉は私と同じ学校の先生でも、音楽の先生。私が育った頃は、本も何も、暮らすことがまず第一で。角館には小学校1年の夏までしかいないんです。角館の小学校には入ったけれど、1学期が終わった段階でまた土崎に引っ越しました。
家族みんなで、っていうわけにいかないですね。私が保育園の年長の時に、父親が肺結核で秋田の病院に入院しました。その時は私より4つ下の弟も、結核性のなんだかっていうことで、病気の名前は覚えてないですけど、秋田赤十字病院※に入院したんですよ。
子供だけ入院させるわけにいかないので、母親も気胸だということにして休職扱いにしてもらって、両親と弟は日赤病院に入院しました。
姉は小学校6年の冬かな。姉と兄と私と、3人だけ角館に残されました。今だったら考えられないですね。姉が母親代わりで、兄は小学校4年生だったんでしょう。ご飯は姉が全部やっていました。
※当時は秋田市東根小屋町にあった。現在の秋田明徳館高校がある辺り。
行方不明事件
不安とか、そういうのは全然覚えてないですね。ただ、大曲から母方の祖母が泊まりに来てくれたことは覚えています。駅まで迎えに行った記憶がある。それで、ある日、行方不明事件を起こしました。おばあちゃんを迎えに駅まで行って、降りてこなかったんです。私は大人の後について入ればタダですもんね、乗っちゃったんですよ。その頃は角館駅で折り返していた汽車もあったみたいで、大曲まで行きました。大曲の花館というところに祖母のうち、まあ叔父さんのうちですけど、あったので、駅からそこまでトコトコトコトコ歩いて行って。
着いたら、おばあさんいないのよね。すれ違ったんですね、どっかで。向こうのおじさん、おばさんが、とにかくお風呂に入りなさいということで。姉たちは大変だったんですって。探しても探してもいないので、最後とうとう警察に行って、行きそうなところはないかって聞かれて。姉がようやく大曲の叔父さんのところを思い出して電話したんですって。そしたら「今、お風呂入ってる」って。
一晩泊まって、次の日、角館中学に通っているおばさんの弟に連れられて、帰ったんです。絶対、手を離さないの。いなくなれば困ると思ったんでしょう。とんでもないことをして。まだ寒い時期でした。
「カンちゃん係」があった
私ね、赤ちゃんの頃から学校で育ってるんです。保育園に入る前は、ほとんど学校で過ごしています。母が角館の小学校に勤務している時、まだ保育室ってなかったんですけど、弟が生まれた頃は若い女の先生方が結構いたものですから、みんなでお金を出し合って、空き教室の半分に畳を敷いてもらった。近所のおばさんと娘さんをお願いして、保育室みたいなのを作ったんです。校長先生がそういうふうにしてくださったんですって。私はそこの第1号じゃないですか。
母親の担任のクラスに私の席もちゃんとあって、クラスの子供たちが日替わりで面倒を見てくれたそうです。だからね、母のクラスの人たちを「オラほの誰それさん」とか言ってたって。ポケットに飴玉とかいろんなおやつを入れておいて、退屈になってくると配って歩くって。だから授業になったものかどうか分かりませんけど。
高等小学校の1年生、つまり今で言えば中学1年ですよね。そのクラスの人の義兄(父の教え子)にあたる方から、後になって手紙をもらったことがあって。私、和子なので、向こうでは「カン坊」って呼ばれてたんですって。「カンちゃん係」があったって。今考えれば、とんでもないですよね。
小学校1年生の夏に、土崎の肴町というところに引っ越しました。駅からすぐ、土崎神明社の近くです。土崎港曳山祭りのあるところ。そこから土崎小学校に入りました。
本を読んでいれば幸せだった
母親と兄が卒業したのが、秋田大学の附属中学校なんですよ。あの頃、生徒がいっぱいいる学校に入ったら、私がぐれるんじゃないかと心配したらしいです。それで、できれば子供の数の少ない学校ということで、附属を受けさせられたんですね。
受けたいというのではなくて。勉強は嫌いでした。附属を受けることもギリギリになってから言われて、それから問題集とかさせられました。
私は本だけですね。本を読んでいれば幸せな人でした。何にも聞こえてこないの、本に夢中になっていれば。手伝いをしないと母によく叱られました。講談社で「少年少女世界文学全集」というのを1か月に1冊ずつ出していたんです。あれを弟と私が1冊ずつ買ってもらって。でも1日で読んじゃうわけでしょ。それで交換して、何回もお互いに読んだりして。
うちは鍵っ子なので、帰っても誰もいない。学校の図書館の本も読みました。友達と遊んだっていう記憶はあんまりないと思ってたんですけど、同級生に言わせると、「学校でそこそこ遊んだ記憶があるよ」っていう話なのね。私が病気をしても、母は枕元にお昼食べる分と薬を置いて、鍵をかけて出ていくんですよ。「何十人もの子供を置いて、あなた一人のために休めば迷惑かける」と。そういう時代でした。

「あの時ごめんね」
私、家庭科が苦手で。中学1年の時、家庭科の先生に、人のやったことをかぶせられた形で叱られたことがあったんです。
笑ったのは隣の人で、私は笑ってないのに、向かい側に座った女の子を笑ったっていうので、やってない私が謝らされた。以来、私はその先生に懐かない。ずっと家庭科が嫌いで、真面目にやらない。毛糸の靴下を編むのを片っぽしか出さない。それは、やれないから。私、ものすごく不器用なんですよ。出来が悪いから叱りやすかったんでしょうね。
でもその先生ね、私が3年の時に謝ってくれましたよ。登校時間に通る道が一緒になる時があるんです。一生懸命追いかけてくるので、私はせっせと逃げたんですけど、学校の玄関の少し前で捕まって。
そして「あの時ごめんね」って。2年も経ってからなんで謝られたのか。責任感のある先生だったんでしょうね。
女の人でも、自分で生きていけるように
父親が入院している時に、自分と同級生だった人の奥さんが、病院に花を売りに来ていたそうです。その方はご主人を亡くされていて。その姿を見て父は、女の人でも、手に職がないと、何かあった時に生きていけないと思ったんでしょうね。
父親も、母親の実家もそうですけど、とにかく女の人でも、自活、自立できるだけのものを身につけておかないといけない、という考えはものすごく強かった。どちらも小さい時から苦労した人たちなので。
「世の中ってこういうもんなのね」
秋田大学を卒業する頃は就職難でした。そういう時は、男の人が先に決まります。成績の良し悪しでなくて。女の人は後回しね。女の人でもトップだった2、3人は長期の講師、あるいは中学校だとすぐ採用になっていましたけれど。世の中ってこういうもんなのね、と思い知らされました。
講師に行く先も決まらなくて、4月のはじめ頃、たまたま近所に聖霊中学校の先生がいらして、うちのこともみんな分かってる方でね。「行くとこ決まったの?」って聞かれて。「いえ」と言ったら、「非常勤の講師だけども来ないか」って。
聖霊高校に、内地留学する先生の代わりに入って、週9時間だから月9000円です。月9000円じゃ、とてもじゃないけど暮らせない。それでも、家のことをやりながら行く先があるっていうのは、まだいいほうで。
その後も高校、中学校と、産休補充の講師で転々としました。上新城の中学校に行った時、授業中あんまりうるさいから、生徒を一人、廊下に立たせておいたんです。そうしたら校長先生が回ってきて、後で呼ばれて。「生徒にはね、授業を受ける権利があるんです」と言われました。だから、騒がせないような工夫を授業でやらなきゃいけませんよって。優しく諭してくださって。考えてもみなかったことなので、それも一つ学びですね。
小学校1年生に教えられた
講師生活の最後は、中通小学校でした。修業ですね、本当にね。相手が小学校1年生でした。私は小学生は全然分からない。まして1年生なんてとんでもない。免許もないし、全教科ですもの。毎日泣いていました。
それまで長く病気で休んでらした先生の代わりに、ほかのクラスに何人かずつ分けられていた子供たちを、12月1日から私が行くというので、元のクラスに戻したんです。
「あっちのクラスではこうだった」「こっちのクラスではこうだった」。給食の時に何をしても、みんなそれだもの。1年2組だったんですよ。
「でも、みんな今2組でしょ?」って言ったの。「ここは2組なんだよ。私たちは2組の子なんだよ。だからここはここでやるしかないんだから、前のことはまず忘れてね」って。そしたら納得するのね、あの子たち。すごいなと思って。
めんこいことめんこいけど。国語の授業で黒板に向かって字を書く。大きく書かなきゃいけない。ひらがなですよ、ほとんど。私、ひらがな苦手なんです。一文字書くのに時間かかる。後ろを向くと、いない。何人か、男の子がいない。「え?」って。「この字、練習しててね」って言って探しに行ったら、体育の用具室で遊んでいました。
音楽はピアノが弾けないから音楽室には行かない。オルガンでやる。引っかかると私が止まるでしょ。そしたら子供が言うのよ。
「先生、間違えても構わないから、そのまま進んでください。私たちちゃんと歌うから」って。
だから子供たちのおかげでね、なんとか最終日まで勤められて。今思えばあれがなかったら私はダメだったなと思う。子供たちはまっすぐぶつかればぶつかったなりの反応があるんですよね。クラスには40人いたでしょうか。あの頃はまだ6クラスくらいありました。学校は大きかったですよ。

定時制高校、月給23,800円
そのあとは高校に移って、転々とあちこち回りました。大学を卒業して3年目に、任用ということで採用されて、最初は県北でした。「昼ですよ」って言われていたのに、行ったら定時制で。夜のほかに昼もあるという。あれはびっくりでしたね。
町には准看護学校があって、そこの子供たちが高卒の資格を取るために定時制に通ってきていました。当時は中学卒業と同時に准看護学校に入って、看護師の勉強をしながら定時制高校にも通って、高卒の資格を取るんです。
最初は下宿だったんですけど、初給料は23,800円です。下宿料15,000円を払えば、やっぱり暮らすのは大変。みんな、よくやってたもんですね。定時制は夜、パンと牛乳が出るんですよ。給料日前になると、残ったのをもらって帰って、友達と一緒に食べたりね。
途中から尾去沢鉱山の独身者用の寮に空きが2部屋あるというので、理科の人と私と2人、そこの部屋に越して月800円で住んでいました。
昔話は、聞いていたい
昔話は、退職してからです。
退職した後、あちこちで講師をやって、高専の講師や、聖園学園短大で非常勤の後、6年間は常勤で勤めていました。
その頃、東京の「昔ばなし大学」に通ったんです。私は63か4ですよね。1年に何回か、1泊2日で行われます。まだ秋田ではやっていなかったので、東京で。1回目を逃してしまったので、それはビデオでやって、2回目から残りは東京に行って受けました。
私はね、研究も何もしない。楽しむだけ。本もそうだけれども、語りを聞くのが好きなんです。
昔はほら、よくおばあちゃんが語ってくれて、聞いてたもんですね。日常的というところまではいかないけれども、年寄りと一緒にいれば、寝物語ですよ。
私がおばあちゃんを迎えに行って、すれ違いになって、黙って汽車に乗って大曲まで行った時も、次の晩、「黙ってそうやって汽車に乗ったりすれば、人さらいにさらわれてサーカスに売られたりするんだよ。昔の昔、こういう話があったんだよ」という感じで話してくれるわけです。ちょっと言い聞かせるための創作も混ぜて。
それで研究しようとかいうよりも、自分が聞いていたいから。
小澤先生が隣に立ってくれて
基礎講座が終わると、再話コースというのがあるんですよ。
昔話を、文字になってるもの、あるいは語られてるものを、自分が語る場合にどうやれば語れるか、それをグループで研究するんです。私は一つしか覚えなかったですね。「おばあさんの鼻水」という話。
仙北ふれあい文化センターで大会をやった時に、私は受付係で語る予定はなかったのに、「先生が呼んでるよ」って言うから行ったら、「秋田でやるのに、秋田の人が語らないってのはない。あなたやりなさい」って。直前よ、直前。
私、まだ全部話を覚えてない。どうしようと思いました。でも「まずやってください」って言われて。いよいよ私が語る段になったら、小澤(俊夫)先生が隣に立ってくれて。だから私、「私は昔ばなし大学の1年生なんです。今日が語る初めての機会です。引っかかるかもしれない。全部覚えてない可能性もあるので、間違えたらごめんなさいね」って断ってからやったの。
私が語っている間、途中忘れてるなと思ったところでも、先生がそばにいてくださって、私が一つ喋り終わるたびに「うん」って言ってくれるんです。私が言うことを聞きながら、「うんうん」って言ってくれるの。あれで助けられてね。なんとかかんとか語り終えて、「聞いてくれてありがとう」って終わりました。
人の声を通して聞く
活字で読むのと、人の声を通して聞くのとでは、受け取る方の思いが違うと思います。ただ黙読するのと、語るのにはぬくもりがあるっていうか、血が通うっていうか。そんな感じがあると思うのね。
だから、語りを聞いてみないことには、本当に昔話を知っていることにはならないんだろうな。
馬場(多美子)さんの話を聞いた時も、面白いと思って聞いています。やっぱり語りを聞いて初めて、「ああ、そうだね」と思うことが多いもの。
活字で読むと、「こういうお話なのね」で終わっちゃうんです。でも、人の声を通して語られると、引き込まれていくのよ。それは本当にそうなの。全国には、ほんとうに語りが上手な方がいる。
何周年の大会をやりますという時、全国から集まります。それぞれの方言で語ってくれる。圧巻ですよ。実際に語らないと、語ってもらわないと伝わらないものって、あると思います。

「私」が言えなかった
詩集ね。それはね、遡るんです。中学1年生まで。
私ね、今は「私」って平気で言いますけど、それまで自分のことは土崎弁で「オラ」ですよ。相手のことは「ォメハン」。「お前さん」っていう意味の「ォメハン」。
そういう言葉遣いをしてきた人間が、ある日突然、共通語で話すところにポンと入れられたら、話せないじゃないですか。
最初のホームルームで自己紹介させられるでしょ。自分の番が来るまでの間、みんなちゃんと「私は」から始まるんです。趣味だのなんだのって。言えないです。「私」が出てこない。頭、真っ白。
最低限のことしか言えなかったです。「私」を使わないでどう言おうかって考えた。使えなかった。使ったことがないから。使ったことがない言葉って、すっと出てこない。
だから私の場合はね、「土崎小学校から来ました、寺田和子です。よろしくお願いします」これしか言えなかった。趣味? 何それ? って感じ。使う言葉が違うんです。持ってくる語彙も違う。
うっかり方言が出ると、いじめられるでしょ。「変な言葉使う」と。子供は残酷ですよ。
詩を探す授業
国語の授業で、詩をやったんです。あの頃は、教室の黒板の上に高村光太郎の「道程」の額がありました。あとは昇降口の黒板に、毎週違う詩が書いてあるんです。私はそれを読むのが好きだった。国語の先生が選んで書いてたみたいです。
ちょうど秋に詩の授業があって、「1時間、校内ならどこへ行ってもいい。ただし、詩を一つ書いてこい」って。やったことないし、一緒に行く仲間もいないわけです。詩を書いてこいという。最初は詩じゃないですよね。詩らしきものなの。自分でどういう詩を書いたかも全然覚えてない。私、恥ずかしいことに忘れるんです。自分が辛い思いをしたとか、悲しい思いをしたとか、ショックだったとか、そういうことは覚えてる。
それはね、自由にしてもらえたから。 あの頃は、グランドの周りが全部田んぼなんです。ポプラの木がグランドと田んぼの間にあって、古い校舎だったので、冬になるとだいたい渡り廊下のところは雪まみれです。そういう校舎だったので、すごく気楽に、グランドに行って、ポプラを見て。
何年か前、聖園に勤めてる時、聖霊に同級生が勤めていて、「あなた、これ覚えてる?」って、聖霊の生徒を使って私が書いた詩を届けてくれた。先生がちゃんと綴じて渡してくれたらしいの。彼女の家にあった。びっくりしたの、私。「え? 私、こういう詩書いた?」って。
「とんぼ」というタイトルです。とんぼがね、2匹つながって飛んでるのをね。周り田んぼですもん。いっぱいいるのよ。みんな2匹一緒なのに、私一人だなって。うん、そういう詩です。
生きていくための、よすが
中学1年の時に初めて詩を書いてから、ノートに書いては先生のところに持っていく。だからあの先生には、毎日の自分の生活が丸見えだったと思います。
毎日、日記みたいに詩を書いて提出して。それに対して先生が、私が書いた詩に何ページも使っていろいろ書いてくれて、そのほかに、ほかの詩人の詩を書いてくれてた。
国語の先生です。卒業までずっとそのやりとりを続けてくれて、3年間その先生に習ったので、私はその先生と出会えて幸せですよね。会えなければ、たぶん私は詩と出会うことなかったかなと思いますね。
だから、おかげで私が生きていくための、なんて言うんですかね、よすが、それをようやく摑んだ。ありがたかったですね。
高校に行ってからは、もう自分一人で書くしかなくて。国語の先生に見てもらおうと思っても、「それはね、もう自分でやりなさい」って。
でも本当に、中学の国語の先生との出会いがなければ、私は今まで生きてられなかったですね。うん。だからおかげで、ずっとそれからは、詩を書くことでいろんなところを乗り越えられて。本当に今まで生きてこられたのも、そのおかげですね。
一番最初に買った詩集
井上靖の『北國』という詩集が、私が一番最初に買った詩集です。当時いくらだったかな。50円じゃなかったかしら。「シリア沙漠の少年」という詩が好きなの。
初めて授業で扱った詩は、谷川俊太郎の「はる」という詩です。

最後に私が書いた詩を一編紹介させてください。
レモン彗星
二月のある日 見つけた一冊の手帳
表紙は群青の空に大小の流れ星
裏にはさんだ細長い紙に小さな文字で
流れ星は幸運の訪れを知らせるサインです
光の象徴 明るい力を与え、悪を遠ざける
と云われています
と あった
レモン彗星
そうだ
去年の十月三十日深更
その星の流れる一瞬を捉えた写真 一枚
携えて十一月の作品展示会に訪れたひと
サイトウと告げたそのひとは
行事のたびに写真を撮ってくれた
誠さんの息子だという
お父さま お元気ですか
思わず問いかけた わたしへの返事は
この八月に亡くなりました
とだけ
か黙な斎藤さんは
眼鏡の奥から まっすぐな目を向け
この後 この彗星が見られるのは
一,四〇〇年後、なんですよ
と 熱く語っていた
六月三日の新聞に「彗星の崩壊」の見出し
四つの破片に崩壊する彗星が
三枚の写真で紹介されていた
日付は去年の十一月八日から十日まで
記事の結びは
この彗星はこの後、太陽系を脱出し、
二度と戻って来ないとみられる
と
レモン彗星は
いま 宇宙のどの辺りにいるのだろう
いまも 太陽系にあって
レモン色の形を保っているだろうか
詩誌「歴程」第六二四号(二〇二六年八月二〇日発行)より


●「谷川俊太郎を語る集い──人と魅力」
日時:2026年10月18日(日曜)13:30-15:30
場所:協働大町ビル
主催:秋田県現代詩人協会
※無料・予約不要

写真:オジモンカメラ/高橋希
聞き手:熊谷新子
デザイン:谷戸正樹