秋田市文化創造館

PARK – いきるとつくるのにわ

トークイベント「大地をたがやす芸術実践」開催レポート 後編

日時|2022年11月23日(水・祝)13:00〜17:00

秋田に暮らす人々やクリエイター、専門家が交わり多様な活動を展開するプロジェクト「PARK – いきるとつくるのにわ」。「観察する」「出会う」「育む」「残す」の4つのプログラムを通して、秋田の文化的土壌をたがやしていくことを試みます。

「出会う(新しい知識や技術と出会うトーク&ワークショップ)」の第5回として、トークイベント「大地をたがやす芸術実践」を開催。青森県立美術館 学芸員・奥脇嵩大さん、プロジェクトチーム・野ざらしの青木彬さん、佐藤研吾さん、中島晴矢さん、インディペンデント・キュレーターの服部浩之さんにご登壇いただきました。

芸術実践によって耕されるべき「大地」とは何なのか、地域における「耕し」の方法とは。また、これからのミュージアム/アートセンターのあり方を探るトークセッションとなりました。


▶︎開催レポート 前編[服部浩之さんによる事例紹介、奥脇嵩大による事例紹介]
▶︎開催レポート 後編[野ざらしによる事例紹介、トークセッション、交流会「SANABURI」]
▶︎服部浩之氏 レビュー「生活と表現が交わる場に、生きる術を獲得するための芸術実践を見出す」


野ざらし(青木彬さん、佐藤研吾さん、中島晴矢さん)事例紹介

佐藤:今、奥脇さんの話の中で堆肥的力学/コンポスティングダイナミックスってあったじゃないですか。堆肥っていうと大地の中で発酵している、みたいなメカニズムの話なのかと思ったんですけど、コンポストと片仮名英語を聞くと、コンポストにはやっぱり箱が必要だよなっていう気がしたんですね。社会的制度としてのミュージアムや何らかの枠組み、箱を仮に設定して、そこから堆肥や発酵を始めていく、ということを言ったのかなと思って、しびれました。

その辺から、野ざらしの紹介をしたいと思います。野ざらしは最初、喫茶野ざらしとして東京で喫茶店をやっていました。当初はいわゆる喫茶店の営業をしたいというより、自分たちの居場所が欲しいということで始めました。喫茶野ざらしとあえて「喫茶」を掲げていたのも、喫茶店という社会的な認証を使って、その枠組みを偽装して自分たちの居場所をつくろうという活動だったのだと思います。

喫茶のざらしの様子

その喫茶野ざらしは、コロナの直前に初めて、コロナ禍で経営的なところが立ち行かなくなり、喫茶店っていう営業活動をしているが故の難しさ含めて、瓦解していったところがあったんです。それで、いざやり始めようとしていた場所を失って、そのまま3人は野に出ていき、その後は東京のアーツ千代田 3331というスペースの屋上や多摩のニュータウンで出張喫茶野ざらしをやってみたり、去年「200年をたがやす」の一環で、野ざらしとしてトークに登壇したり、オンラインでワークショップを行ったりしました。

この2年間、野ざらしの活動は関係が成熟し切らない、営みが成熟し切らなかったが故に延命しているところがあります。ユニットになり切らないんだけど、枠があったり、おぼろげにしか見えない方向性、ベクトルに野ざらしっていう名前が付いて、3人の関係が距離を持ちながらつながり続けています。

そして野ざらしという枠組みがありながらも、一方でそれぞれ個々に活動をしています。個々のフィールドでおこなっている活動が、野ざらしという枠組み、輪郭の中でまた別の形で見えてきだした、自分の活動自体も変容しだした、みたいなことがあるなと思うので、続けてそれぞれの活動を紹介しますね。

佐藤:僕は建築の設計をなりわいとしつつ、福島県の大玉村という所に住んでいます。

佐藤研吾さん

震災の後に、放射能の研究をしている友人が大玉村で調査していく中で、調査という入り方ではなく、地域や地元の人と何らかの取り組みができないかという話し合いになり、遊びに行くようになりました。そこで当時の風潮というか雰囲気もあって、食べ物ではないものを一緒に栽培しようというので、藍染めができる植物の藍の種を持ってきて、畑を始めたんですね。

そのとき東京と福島を行き来していたんですけど、福島で過ごす中で自分の中でもいろんな解像度が上がってきて、これは一度ちゃんと中に入ってみて、見つめ直そうと考えて、今は福島県大玉村で活動をしています。

喫茶野ざらしの設計と施工をやったときには、東京と福島を移動している意味を考えつつ、あるいは移動していることをある種の資本として捉えて、福島から物を持ってきて、東京の喫茶店に組み合わせていくという、自分がそこにいたという記録にもなることも含めた設えにしました。藍染めを使ったランプシェードだったり、福島のスクラップ工場からもらってきた真ちゅうを鋳込んでドアノブを作ったりとか。

それで去年「200年をたがやす」で展示させてもらった時には、秋田県内を回りながら秋田杉を手に入れさせてもらって、それを使って木製のピンホールカメラを作って撮影をするということをやりました。

その時に、農民彫刻家の皆川嘉左エ門さんの彫刻を見て、これはすごいなと思って、僕も今年彫刻をやってみました。建築のスケールまではできなくても、どうにか自分が手に負える範囲内での彫刻といいますか、道具づくりをやっています。

中島:僕は現代美術をメインにアーティストとしてやってきて、その中で都市を1つのテーマとしてずっと扱ってきました。もともとメディアは問わないで、映像・写真・平面・何でもありでいろんな作品を作ってきました。

中島晴矢さん

自分の出身地が横浜市の港北ニュータウン、その後は田園都市線のたまプラーザなんですが、ニュータウンという空間に対して愛憎の気持ちがあったので、そんなラヴとヘイトをぶつけた作品として、『バーリ・トゥード in ニュータウン』という、ニュータウンの路上でプロレスをずっと続けるというシリーズを3作品作りました。最初に港北ニュータウンから始めて、2つ目で多摩ニュータウンに行って、3つ目に大阪の千里ニュータウンで戦い続けるという映像作品です。

また、ここ10年近く東京をテーマとしてきました。2013年に東京オリンピックが決まって、そこから東京はどうしていくんだっていう議論が起きたときに、自分にとっても東京って何だろうと考えて、2019年には『東京を鼻から吸って踊れ』という、東京についての自分なりの考えを集大成的に示した展覧会をやりました。

さらにここ数年は執筆に力を入れていて、2022年には『オイル・オン・タウンスケープ』という書籍を出版しました。街エッセーであり、一種の東京論でもあります。これは2020年から書き始めて、2年間ずっと連載をしていました。

そこにはやっぱりコロナの影響がすごくあって。最初は街並みのエッセイを書こうと割とポップな気持ちだったんですけど、第2話目を書いている時には緊急事態宣言になっていて、そうすると街を描くっていうことがある種、政治的な行為というか、シリアスなものにもならざるを得なかったです。

そして、オリンピックに対してもずっとアート作品で思いをぶつけてきたんですけど、エッセイを書いている最中に2020年から1年ずれて、さらに無観客で開催されましたよね。国全体とか国民全体も振り回されながらやってきた部分があって、コロナとオリンピックにリアルタイムで巻き込まれながら都市について書いていました。

同時に街エッセイの挿絵にするために初めて油絵を描き出して、下手くそなんですけど、風景画を描いてみるっていうことをやっていました。

現代美術のモードに限界も感じていたので、油絵を描くことが自分の中ではこれまでと違う経験になっています。

最近の状況としては、今もう東京に対して少し距離を置きたくなって、いったん東京を離れて、千葉県の松戸にすみかを移しました。ある種の避難として千葉に移ったり、油絵を描いたり、文章を書いたりしています。それは、ずっと手探りをしながらの野ざらしの2年間とも通じるような気がしてますね。

青木:僕はインディペンデントキュレーターとして活動しています。企業とか行政の人と組んで行うことが多くて、美術館とかギャラリー空間じゃない、いわゆる美術制度が成立していることが自明じゃない場所で企画を行うことが多いです。

青木彬さん

今回のテーマについて触れるときに、僕も大地って何か、耕すって何だろうって考えました。僕はいくつかのコミュニティーや地域に入って、そこの人たちと一緒に企画をしていくことが多いので、奥脇さんが美術館だとしたら、僕はもうちょっと限定的な地域とかコミュニティーが耕すフィールドなのかなと思っています。

例えば、僕は今、横須賀のほぼ空き家群になっている一角に住んでいて、そこにはアーティストたちもいて、地域の人たち向けに小さい展覧会をこっそり開いたりしています。僕自身もここで畑を耕しながら自分のキュレーションについて考えたり、東京との距離感が出たことで、少し落ち着いて物事が考えられるようになったなと感じています。

横須賀の拠点

特にここ数年は福祉系の分野に興味があって、セツルメント運動をキーワードにリサーチをしています。19世紀のイギリスが源流で始まった地域の生活改善を行っていく運動で、そこに美術家が関わっていた歴史を見つけて、興味を持ったのがきっかけでした。

日本では東京帝国大学のセツルメント運動の拠点を、今和次郎が設計していました。そして当時の考現学のメンバーが運動の拠点であるセツルメントハウスで、子どもたちに鉛筆画を教えて展覧会を開いていた、という記録が残っています。それを見たときに、いわゆる今、行われているアートプロジェクトと呼ばれるものに、概要だけ見ると近そうだと思って。でも、それはいわゆる美術史としては残っていない気がしたんですね。

特に今の日本型アートプロジェクトと呼ばれるものは、1950年代の野外美術展が源流に位置付けられたりしていて、それはいわゆる作品の歴史であって、プロセス重視で行われる活動や美学的価値だけを考えていない近年のプロジェクトとの相性って、どうなんだろうと思っていたんです。そのときに、セツルメント運動に当時の表現者たちが社会に関わっていた歴史を掘り返していった方が、今のアートの価値観に何かつながってくるんじゃないかと考えていました。

今和次郎だったり、建築であったり、それぞれの興味関心とも交わるところがあるので、野ざらしのメンバーにも、セツルメント運動というキーワードはずっと共有していました。今和次郎が設計した帝大セツルメントハウスは東京の墨田区に建てられたものでしたが、秋田の生保内にも生保内セツルメントの拠点を設計していました。建物は現存していなくて、でもその建物に増築されて造られた一部分が残っているというので、昨日3人でリサーチに行ってきました。

実際、跡地には何か情報が展示されていたわけではなかったんですけど、たまたま訪れた図書館で僕らが行った前日に、現在も活動されている友の会の人たちがセツルメント運動のいろんな資料を図書館に寄贈されたらしくて。図書館の人ともいろいろ情報交換させていただきました。そういう感じで、野ざらしでは3人でリサーチのために現場に行ったり、情報交換を行ったりしています。

生保内セツルメント跡地

僕自身はセツルメントに数年間興味があったので、東京の墨田区で1919年に設立されて今でも運営されているセツルメントの拠点・興望館という施設に当時の保育日誌とか、活動写真、いろんな資料が保管されているっていうことを知って、2、3年前からアーティストの碓井ゆいさんとリサーチを行ってきました。

去年1年間、資料をリサーチしながら学童向けにワークショップを行っていて、現在は2年間の活動の成果発表として展覧会を行っています。

「共に在るところから/With People, Not For People」展示風景

最後に、大地というテーマを考えたとき、僕もこういうプロジェクトをやるときに、誰がこの価値を受け取ってくれればいいんだろうということはすごく考えていて。例えば、こういうローカルな実践が『美術手帖』で広報される必要があるのか、主催者側が誰とこの価値観を大事にしたいか、を考えなきゃなっていうのはすごく思っています。現場に入ってその場所を耕していかないと出会えない方、フィジカルというか、具体的な手触りがある人たちの協働というのが今日の一つのテーマになるのかなと思いました。


トークセッション

服部:今回は、大地をたがやす芸術実践の「大地」をどう捉えるかが、一つのキーワードになっていたと感じました。奥脇さんは大地を美術館と読み替えて、美術館という場所あるいは制度を引き受けながらどう更新していくかというお話でした。中でも「動的に安定した場所」という言い方が印象的でしたね。かつて美術館は、作品を収集して保存していくある種の墓場に例えられることも多かったと思います。その機能を保持しつつも美術館は変わっていかなければいけない。しかし制度を否定するだけでは何もできない。そこでどういう交渉をして、どう継承しつつ展開していくかというところに、動的に安定した場所という言い方は、態度がすごくにじみ出ているなと感じました。

まず奥脇さんにお聞きしたいのですが、美術館堆肥化計画であえて美術館から飛び出して、青森県内のいろいろな場所に出張して、さらにそれを美術館に戻すという活動をされていると思うのですが、それによって目指しているものを聞いてみたいと思います。

奥脇:美術館堆肥化計画を始めるきっかけには、コロナで県外来館者が激減して、落ち込んだ収入を回復する手段を考えなさいと県から要請があったことも一つにあります。なので、県内のお客さんに来てもらう方法として、特に県内の美術館がない地域に出張して現代アートや美術館の面白さを紹介するプロジェクトとしてやっています。

でも、地域に出ると美術が美術として機能しないような瞬間がすごく多いんです。現地の人がよかれと思って、消していた展示空間の照明をつけてお客さんに見せちゃうとか。

こっちが意図して作った部分を地域の現実が軽々と壊していく。

そういう部分を絶えず突き付けられることによって、美術館にとって当たり前だと思っていた制度やインフラが、実は当たり前じゃないんじゃないか、美術を美術として見せる空間を美術館以外でも成立させるにはどうしたらいいか、美術が美術以外の空間で見せられる場所とはどんなものか、考えさせられます。
美術館外の空間を見つつ、美術館の中をもう一回まなざすことによって、形式を新しくしていく。その積み重ねで、ちょっとずつ美術館の展示を作るときの最適解を増やしていく。そのための取り組みと考えています。

服部:僕は2021年度に見せていただいて。やはりそういう地域で展開されるアートプロジェクトって、定型やひな形になりつつあると思っていたんですけど、そういうものから少しずれている、常套手段にはなっていない感じがいいなと思いました。

奥脇:あまりアートプロジェクトをやっている意識はなくて、その場所で何が見せられるかを考えたいと思っていました。例えば、2021年の津軽中泊町での展示では、津軽の沼地から見つかって旧石器と誤解されていた石の塊を中泊町博物館で見せていました。その物がその物として機能するときに、どんな要素・環境が必要なのかを考えながら作っていくと、アートプロジェクトらしくない展示の仕方になりましたね。地域の日常に美術館が入ったことによってゆがんでいくというか。ゆがみのある風景を各地域で増幅していくと、風景のただ中にある美術館自体もまた変わって見えるだろうと感じていました。

服部:野ざらしの皆さんからは、前半のトークにて「営みが成熟していない」とか「未完成」という言葉が出てきたと思います。完成したもの、あるいは成熟しきった作品をアーティストは発表するものだという価値観、在り方に対しても更新していくべきだという態度が感じられましたね。

中島さんがあまり描いたことのない油絵をあえて描いているということや佐藤研吾さんも彫刻を作っているとお話。青木さんからは美術館やホワイトキューブではない場所での実践についてのご紹介がありました。自分が不確定であるとか、未完成であることを肯定することによって、開いていきたいという態度が皆さんから感じられて、それは非常に共感ができると思いました。

だからこそ、今後どうしていくかは決まっていない気がするんですけれども。現在の野ざらしとしての3人の活動はどうなっていますか。

青木:住んでいる場所が福島、千葉、神奈川と交差する場所がなかなかなくて、3人同時集まるのはオンラインが多いです。

佐藤:ある種の余暇的なところが強い気がします。連帯をつくらないと生きていけないわけではないし、けんかしてるわけじゃないのでやめる必要もない。

中島:昨日久しぶりに1日中リサーチで3人一緒にいたんです。それで、最近読んだ小松理虔さんの『新地方論』に都市と地方の間で考える、住民でも観光客でもなく中間の存在として地域に関わることの説明が書いてあって、それは野ざらしにも当てはまるんじゃないかと話していました。

加えて、奥脇さんもおっしゃったようなある種の地域の現実というか都市のリアルな姿のほうが全然いろんなものを越えてくるなと、僕も最近すごく思っていて。

例えば、昨日は朝からリサーチのために3人で生保内セツルメントを見に行ったんですけど、その跡地の場所に「滝沢食堂」っていういい雰囲気の食堂があって、そこに入ったらがっこ作りのための大根が吊るされていたりとか、出前の大量注文がちょうど入ったタイミングだったから結構待たされたりとか。そういうディテールのほうが秋田の情報としていっぱい頭に入ってくる。その後、八郎潟に行こうとしていたけど高速道路の道を間違えて大曲で降りたら、たまたま見つけた秋田農業科学館で、今日この後やる「さなぶり」っていう田植え後の路上での宴会の言葉を知ったり、そこで柿をいっぱいもらったり。すごく面白かったんですね。

野ざらしで動いているとこういう機会があるから、東京でアーティストのソロの活動だけをやっているより、別の可能性を探れる風通しがいいチームになっているなと感じます。

青木:風通しの良さの話は本当そうですね。3人で常に同じ方向に内向きに向かっているわけじゃなくて、それぞれの向かう先があって、その中でたまに交わるところがあるからこそ、考えていることとか行動にドライブがかかってくるのだと思っています。

あと奥脇さんがおっしゃった美術館に風穴を開けて抵抗勢力を呼び込むということは、僕もすごく関心があって。僕も2019年に京都芸術センターで、アートセンターをどうやったら使いこなせるかを考えて「逡巡のための風景」という展覧会をやりました。そのときにもステートメントで「アートはあらゆる矛盾の中で思考し続けて、自分をどんどん更新していくことじゃないか」というふうに書いています。

京都芸術センターってコの字型の建物の間にグラウンドがあるんですけど、グラウンドは街の人のものでアートセンターのものじゃないという政治的な区切りがあって、最終日はクロージングパーティーと称して、そこに植えられた桜の木の下でお花見をやりました。そしたら、同じときに町内会の人もお花見をやっていてそこでアジールができる。今までの芸術センターという枠組みの中だと溶け込ませにくかったところを緩やかにハックしていく。

奥脇:「逡巡のための風景」を拝見したときに、京都芸術センターと町内の人の見えない壁が、それも含めて一つの風景になっていると感銘を受けました。

展覧会が契機になって地元の人と芸術センターの活動の有機的な結び付きが増えていった感じが見える。違う両者が交ぜ合わさったときに見えてくる別のオルタナティブな風景。そういうものがあることのありがたさ。そのときに見た風景と国際博物館会議の話がごちゃ混ぜになりながら、堆肥化計画につながっている気もしますね。

さっきも地方でアートがアートとして成立するような場面はほとんどないと言いましたが、東京だと展示にしてもアートプロジェクトにしても発表のために用立てられた場所にすぐ整理されて納まっている。地方の場合は、いい意味でも悪い意味でも受け皿がないから、いろんなものがごちゃ混ぜになるんですよね。それは、小中学校のときには成績のいい子も悪い子も一緒にいるけど、高校になって選別されるのと一緒な感じもするし。
野ざらしじゃないですけど、未分化なままに共にあり続けるための技法をキュレーションのコアにすると、生み出されていく企画とか生活の在り方が随分変わるんじゃないかなと思いました。

青木:イギリスの湖水地方にグライズデール・アーツという団体がいるのですが、その元メンバーでもあり現在はマンチェスター市立美術館館長を務めるアリステア・ハドソンさんが、第3の美術館像を提案されていて。第1の美術館は権力を広める美術館。第2の美術館は美術館が決めたプロットに参加者を招き入れる美術館。そして、第3となるこれからの美術館は、美術館をみんなで使っていく方向にシフトするべきじゃないかとおっしゃったそうです。その思想にすごく共感していて、その実践として奥脇さんの青森県立美術館のプロジェクトの話を聞いていました。

これからそういう美術館が増えて、アウトリーチが重視されていくと思うんですけど、それを担えるキュレーターは今までの美術館の制度とは違うテクニックとかマインドを持っている人だと思ったときに、奥脇さんみたいな方がいることはすごく可能性があるなと思っています。

服部:積極的に使っていくって、まさに文化創造館が元美術館だったところから更新して試そうとしているところだと思うんですよね。まだ開館してから2年も経ってない中で、随分最初の頃と印象が変わったなと思います。それは1階のちょっとしたスペースの使い方が変わったり、勉強している若い人が増えていたりとか。それぞれの使い方で使われ始めている、なじんできている。それが少しずつ見えるのはすごく良い。誰かが強い権力を持っている感じがあんまりしない、それってなかなか難しいですよね。

青木:僕も一時期公立の文化施設で働いていたことがあって、当時の館長もあまり注意書きを貼るな、と言う人でした。コンセプトとしては分かるけど現場を運営する人としては困る、ということがあったりする。折り合いを付けるところがすごく難しいんですけど、文化創造館はそういうレベルから、スタッフの皆さんの奮闘があるから、いい使い方がされているとすごく感じました。

佐藤:僕は文化創造館が開館準備中の時に初めて伺って、その時は床とかもっときれいだったんですよ。今日来て、いろんなところに傷が増えていたり、ポップが増えていたり、有象無象のディテールを持った什器が増えていて、1年経って痕跡が積み重なってきたんだなって思いました。

建物に傷が付くことで、そこに親しみを見いだすことって、青森県立美術館の建築でも意図されていたのかなと思います。設計者の青木淳さんが、外装のレンガの壁はいつかペンキが剥がれてきて、レンガとペンキの表層が入り交じった複雑な表情をしだすという想定で作ったと何かに書かれていました。傷が付いてくることで美術館が外に開かれていく、というプロセスを設計したんだろうなと。

奥脇:青森県美の壁は、たまに「開館当初にくらべて汚くなったね」とか言われたりするんですけど、青木さんはこの「なじむ感じがいい」と言っていて、せめぎ合いはありますね。その中でお互いがいいと思う部分を交渉しながら見つけていくのを、ちょうど今やっているとこです。

佐藤:文化創造館もどうこの場所と戦うかがもろに出ている感じがします。もともと巨大壁画のためにあった空間で、それが不在の今、空虚を取り込んでいる場で一体何ができるんだろうか、ということを創造する役割としてスタッフの方がいらっしゃったりして。

文化創造館にある什器を用いたイベントの様子

「200年をたがやす」の会場構成した海法さんがデザインした什器を、1年経てスタッフの人たちがいろいろ使いこなしている。使いこなすことで、あるいは新しい什器を増やしていくことで、この凶暴な建物をどうにか手なずけようとしている。その格闘の痕跡が相対として表れている感じがします。

服部 什器に関しては、海法さんの設計の時点で、どうやって作られたかが分かりやすい作りにしたいって言っていて。それはその後、使っていくことやDIYで似たものも作れちゃうということを見越して作っていたんです。それをうまく引き継いでさらに転用させて、いろんなものが作られるのは面白いなと思います。

場所をどう使いこなしていくかって、どういうところでも大きな命題にはなってくるし、それがスタッフ側だけではないところから提案されているのは、文化創造館の面白いところですね。

秋田市文化創造館 スタジオA1(撮影:草彅裕)

実際この空間で展覧会をやるのってなかなかハードルが高いんです。圧倒的な空間を使うのは結構、難しい。それこそ青森県美なんてコントラストがすごいですよね。圧倒的な空間と展示のための造りが混在しているのは、使う側が試されている感じがします。

奥脇:混乱しますよね。青森県立美術館の例で言うと、実際に来てくださった方は分かると思うんですけど、縦横高さが20メートルくらいのプールみたいな空間の壁の3面に、幅15m高さ9mのシャガールの舞台背景画が掛けられていて、すごい量感、質量で迫ってくる空間があるんです。その回りにホワイトキューブや土っぽい床の空間が続いていく造りなんですけど。圧倒的な量感のある空間とオルタナティブな語り口の空間が混在していて、空間の性質が混ざっている中で強制的に試行錯誤させられるのがいいなと最近は思っています。さっきの第3の美術館の話じゃないですけど、第1の権威的な美術館に片足を突っ込みながら、みんなで使っていくようにするにはどうすればいいか、その問いに答えるための余地が残されている美術館として使うといいのかなと。

服部:それこそメンテナンスじゃないですか。耕すという言葉って、言い換えるとどう維持していくか、どう手をかけていくかだと思うんです。作業として終わりがない。恐らく青森県美はこれからメンテナンスが大きな業務になってくと思うんですよね。そこってすごく希望でもある気がしています。社会としても退縮していく、どんどん行き詰まっていくと言われている中で、メンテナンスを施しながら変化させていくこと。その中でも安定を築きつつ、常に変わり続けられるようなメンテナンスというのが、耕すということなんだろうなと皆さんのお話を聞きながら思いました。

会場からの意見

参加者:堆肥力という言葉ありましたけれども、中島さんと青木さんからも「堆肥力」をどういうふうに捉えられたかお聞きしたいです。個人的には堆肥力は考現学だというふうに感じました。社会を見ながら今の日常を積み上げていくと、それが未来の堆肥になっていくと僕は捉えたので、すごくいいヒントをいただいたなと思っています。

中島:都市とか街並みにおける堆肥的なものっていうと、東京では下町にあるんじゃないかと思います。再開発され過ぎないほうが街は堆肥的に発酵してくんですよね。赤瀬川原平さんの「超芸術トマソン」、建物に付随する無用の長物、上って下りてどこにも行けない階段とかは、僕の中では腐葉土に近いというか、堆肥みたいなもんじゃないかなっていう気はしていて。

東京は渋谷辺りがオリンピックのためにものすごい再開発があって。つまり腐葉土とか、栄養のある土とかミミズみたいなものを完全にさらって、つるっとしたもので埋めてしまうようなことをずっとやっていて。そういう意味で東京からはどんどん堆肥が失われつつあると感じます。

青木:僕は2019年に右足を切断して義足なんですけど、義足のソケット部分には持ち込んだ布を張り付ける加工ができるんです。そこで僕は、義足が踏みしめる大地から育ったものを、自分の体に取り入れようと思って、染色技法を用いるアーティストでもあるパートナーと育てた植物を使って布を染めることにしました。さらに、切断した右足の遺灰を顔料に加工して、布を着彩してオリジナルの布をつくりました。またバナナの木の皮から紙を作る工芸家の方のところで、右足の遺灰入りの紙を作って、それをパッチワークしてソケットを完成させている最中なんです。

それを作っていたときに、自分に必然性があることの中で創作をしていくことってすごく大事だなと思いました。最近、キーワードとして切実な創造力っていう言葉を使ったりするんですけど。

堆肥力という言葉を聞いたとき、大地の上に現れたものがまた土に還っていきながら、いつかその土で育つ別の植物の養分になっていく、みたいな僕らには見えない必然性、循環というイメージも思い浮かべました。その人たちにとっていかに根拠があって、かつ、客観的な価値のあるなしに関わらず、その人にとってちゃんと養分として吸収される循環がつくられているということ。堆肥力の話を聞きながら、自分の中にはそういうふうに落とし込んでいました。

参加者も交えた交流会「SANABURI」


▶︎開催レポート 前編[服部浩之さんによる事例紹介、奥脇嵩大による事例紹介]
▶︎開催レポート 後編[野ざらしによる事例紹介、トークセッション、交流会「SANABURI」]
▶︎服部浩之氏 レビュー「生活と表現が交わる場に、生きる術を獲得するための芸術実践を見出す」

Profile

奥脇嵩大(青森県立美術館 学芸員)

1986年埼玉県生まれ。青森県立美術館学芸員。京都芸術センター・アートコーディネーターや大原美術館学芸員を経て2014年から現職。ミュージアムの諸活動やキュレーションの実践を手がかりに、形と命の相互扶助の場をつくることに関心をもつ。これまでの主な企画に「光の洞窟」(2014-15、KYOTO ART Hostel kumagusuku)、「青森EARTH2016 根と路」、「アグロス・アートプロジェクト2017-18:明日の収穫」「青森EARTH2019:いのち耕す場所 -農業がひらくアートの未来」(すべて青森県立美術館)など。主な論考に「アーティストの人類学的実践とは」(『美術手帖2018年6月号』)など。現在、青森県立美術館にてプロジェクト「美術館堆肥化計画」を進行中。
https://www.aomori-museum.jp/schedule/11031/

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野ざらし 青木彬(インディペンデント・キュレーター、一般社団法人藝と)

1989年東京生まれ。首都大学東京インダストリアルアートコース卒業。社会的養護下にある子供たちとアーティストを繋ぐ「dear Me」企画・制作。まちを学びの場に見立てる「ファンタジア!ファンタジア! —生き方がかたちになったまち—」ディレクター。「KAC Curatorial Research Program vol.01『逡巡のための風景』」(2019, 京都芸術センター)ゲストキュレーターなど。

Profile

野ざらし 佐藤研吾(建築家)

1989 年神奈川県生まれ。東京大学工学部建築学科卒業、早稲田大学大学院創造理工学研究科建築学専攻修士課程修了。一般社団法人コロガロウ/佐藤研吾建築設計事務所主宰。インド・日本で開催する短期デザイン学校In-Field Studio/荒れ地のなかスタジオ代表。福島県大玉村で藍畑を世話する歓藍社に所属。同村では古書店とコーヒーショップも運営中。
https://korogaro.net/

Profile

野ざらし 中島晴矢(アーティスト)

1989年神奈川県生まれ。法政大学文学部日本文学科卒業、美学校修了。 現代美術、文筆、ラップなど、インディペンデントとして多様な場やヒトと関わりながら領域横断的な活動を展開。現在、美学校「現代アートの勝手口」講師。 主な個展に「オイル・オン・タウンスケープ」(NADiff Gallery, 2022)「東京を鼻から吸って踊れ」(gallery αM, 2019-2020)、キュレーションに「SURVIBIA!!」(NEWTOWN, 2018)、グループ展に「TOKYO2021」(TODA BUILDING, 2019)、アルバムに「From Insect Cage」(Stag Beat, 2016)、単著に『オイル・オン・タウンスケープ』(論創社, 2022)など。
撮影: MATSUKAGE

Profile

服部浩之(インディペンデント・キュレーター)

秋田公立美術大学大学院非常勤講師。東京藝術大学大学院准教授。1978年愛知県生まれ。建築を学んだのちに、アートセンターなど様々な現場でアーティストの創作の場をつくり、ひらく活動に携わる。アジアの同時代の表現活動を研究し、多様な表現者との協働を軸にしたプロジェクトを展開。主な企画に、第58回ヴェネチア・ビエンナーレ国際美術展日本館展示「Cosmo-Eggs|宇宙の卵」。「200年をたがやす」全体監修。

撮影| 白田佐輔
編集|藤本悠里子(NPO法人アーツセンターあきた)

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