秋田市文化創造館

連載

幼少期の思い出

生まれ育った秋田を出て活動・表現することを選んだ方々に、
子ども時代の記憶をご執筆いただきました。
秋田の風土はその感性をどのように培ったのか、
あらためて、秋田とはどのような場所なのか。
「秋田市文化創造館に期待すること」もうかがいました。

馬ソリの思い出

友川カズキ(歌手・詩人・画家)

 19歳のときに集団就職で上京するまで、生まれ在所である秋田県北の農村地帯、山本郡八竜村(現・三種町)で過ごした。
 生家の前には、やがて八郎潟に注ぐ三種川が流れ、幼い私は水浴びをし、ナマズを獲り、ザッコ釣りをして遊んだ。早朝、ポンポン船が運んでくる獲れたての白魚をドブロクで味わう祖父の顔は、一口分け与えられたその苦味とともに、60余年の月日を経てなお鮮明だ。
 齢71を迎えた今、ふと思い出すのは幼少期のことばかりなのが、老齢の典型として情けなくも愉しくもある。たった20年足らずの郷里での記憶が、上京後半世紀の記憶を凌駕して余りある。
 舌とてそんなサマで、「何か食べたいものは?」とひとに訊かれても、秋田の田舎料理を思い浮かべてしまう。今時分(この稿を書いているのは2月)なら、大根のナタ漬けと、やはりハタハタをさし置くわけにはいかない。

 このエッセイの執筆依頼を受け、すぐと脳裏に浮かんだのが「馬ソリ」のことであった。
 小学校低学年の頃の話だ。当時は未だ「牛馬の時代」であり、生家の近くを走る国道7号も砂利道で、道の上には牛糞馬糞がさも当然のような顔をして散乱していた。
 馬ソリは本来、田や畑に撒く堆肥を運ぶためのものだが、冬の朝、大雪が降ると、近隣の子らがまとめてソリに乗せられ小学校に通ったこともあった。通学路は1キロちょっとの道のりであったが、なにせ周りは田ばかりで吹きっさらしであり、小さなワラシらが吹雪でふっ飛ばされないように束にして送り届けたのである。いわば「臨時通学バス」のようなもので、農耕馬を所有する家の親父さん方が持ち回りで「運転手」を務めた。
 そのスピードは幼心に快感であり恐怖でもあった。特に、小道に入る曲がり角を急カーブする際のソリの勢い、衝撃と轟音のスリルといったら、「手に汗握る」などという生易しいものではなかった。小学生を軽くチビらせるには十分過ぎたのだ。
 ウブな乗客を驚かしつつも無事学校に辿り着くと、馬はもう汗ビッショリで、これまた物凄い勢いで雪上に放尿するのである。ションベンの跡にはポッカリ穴が開き、土肌が見えさえした。ボー然と見つめる幼い私の顔からも、きっと湯気が立っていただろう。

 私は絵も描くが、デタラメに描いたつもりが、知らず識らず故郷の心象風景がモチーフになっていることがよくある。つい最近も、地吹雪舞う国道7号を、角巻をかぶり身を寄せながら歩む老婆たちをイメージした絵を仕上げた。
 網膜と舌にこびりついた記憶。絵筆がソレをなぞり始めたら、黙って従うまでである。

Profile

Kazuki Tomokawa○歌手・詩人・画家・エッセイスト・俳優・競輪愛好家。1950年、秋田県山本郡八竜村(現・三種町)生まれ。本名・及位典司(のぞき・てんじ)。中学生の頃に中原中也の詩『骨』に衝撃を受け、詩作を開始する。中学卒業後、バスケットボールの名門である能代工業高校へ進学。上京後、有線放送で耳にした岡林信康の歌に衝撃を受け、アコースティック・ギターを独習。75年にファーストアルバム『やっと一枚目』をリリース。以後、30枚を超えるアルバムを発表し、2000年代以降は欧米・中国・台湾など海外公演も多数。代表曲に「生きてるって言ってみろ」「死にぞこないの唄」「トドを殺すな」、ちあきなおみに提供した「夜へ急ぐ人」など。最新ベストアルバムは『先行一車』(モデストラウンチ)。
80年代以降は画家としての活動も並行して行い、絵本や詩集、エッセイ集なども刊行。2015年には自伝的エッセイ『友川カズキ独白録』(白水社)を、2019年には『一人盆踊り』(ちくま文庫)を上梓した。
数々の映画・ドラマ等への出演歴があり、2010年にフランス人映像作家ヴィンセント・ムーンによるドキュメンタリー映画『花々の過失』公開。2020年、もうひとつのドキュメンタリー映画『どこへ出しても恥かしい人』(佐々木育野監督/シマフィルム)が公開。現在、ライブ配信や絵画制作などを精力的に行っている。
●友川カズキ公式ウェブサイトhttp://kazukitomokawa.com/j/

秋田市文化創造館に期待すること

好奇心の強い人たちにとって、何かしらの発火点となるような場所であることを期待しています。