秋田市文化創造館

レポート

クロストーク
「秋田、能登、クンストハンドヴェルク (アートと工芸)」

レポート(中篇)

伊藤俊治(美術史家)+赤木明登(輪島塗師)
進行:石倉敏明(芸術人類学者)

日時:2024年11月4日(月休) 14時-16時
会場:太平山三吉神社総本宮 斎館2階
主催:辺境地点(田村一) 共催:秋田市文化創造館


中篇(赤木明登氏)

●赤木明登さんのお話ー「小さな木地屋さん再生の物語」

赤木 本当に示唆に富んだいいお話の後で、少し役不足かもしれないですが、7月に金沢大学でシンポジウムをしたときに使用した資料をお見せしながら、「小さな木地屋さん再生の物語」についてお話をします。伊藤先生は千数百年にわたって、この環日本海で培われてきた文明の話をされましたけれど、僕はこれから、たった1分間でその文明がどんなふうに壊れるかという話をしたいと思います。

赤木明登さん(輪島塗師)

アマメハギの門前町の皆月という集落も、地震の直後、孤立地区になって、自衛隊のヘリコプターで住民全員が運ばれて、最近やっと住民が戻ってきたところで水害が起き、また孤立をして、またそこから避難を余儀なくされて。恐らく、この後、アマメハギという伝統的な行事が持続できるかどうか、非常に危険な状態だと思います。

地震という、とても大きな自然災害を受けるということは、すごく残酷で悲しい出来事ですけれど、その中で実際に僕がやってきたことを通して、未来に向けてどういうポジティブなことができるかという話を今日はしてみたいと思います。

これは僕が毎日作っている輪島塗の飯椀なんですけれど、これは江戸時代の飯椀の写しです。よく話をするんですけど、僕は自分の作品にはオリジナリティーがないということを実は自慢にしていまして。じゃあ、オリジナリティーはどこにあるのかというと、過去にあるといつも話をしています。

輪島塗の江戸時代の中期に始まったお椀の形を写し取る。でも、写し取るというのはただのコピーではなくて、その同じ形の中にある、より美しい形を選択し続けることですけれど、そういう仕事をずっとしてきました。でも、その中で何か本質的なものが足りないのではないかとずっと考えてきましたが、それは何かという話をこれからしてみたいと思います。それがたぶん、伊藤先生もおっしゃっている四次元的、もしくは宇宙の摂理とつながっていくのではないかと思います。

僕が展覧会をするときは僕の作品として世の中に出ますが、実はこれを作っているのは僕ではないんですね。輪島の中にいるたくさんの職人さんと協働して作っているので、僕個人の作品では決してありません。このお椀の木地を挽いてくれているのは、さきほど献杯をした、7月1日に亡くなられた、その当時、輪島塗の椀木地師としては最高齢だった、86歳の池下満雄さんというおじいちゃんの仕事です。

池下さんは、分かっているだけで江戸時代から、この同じ場所でずっと仕事をしていた木地師の家です。この池下さんの体の中には、輪島塗のいい形が、ずっと流れている気がします。でも、その引き出し方によって、やぼったくなったり、かっこよくなったりするので、それをやぼったくない形で引き出すのが僕の仕事だと思っていました。

池下さんの地震前の仕事場は、昭和の初めに電動化され、それまでは手挽きで、人力でろくろを回していましたが、電動化されたときに造られたままの場所でした。外国からお客さんが来たら、僕は必ずここに案内をして、輪島で一番美しい場所だといっていました。

これはその木地を挽くための材料を積み重ねてある状態です。非常に整然と積み重ねられていました。

●能登半島地震発生

1月1日に、皆さんご存じのように、能登半島地震が発生しまして、その直後に池下さんの工場を訪ねたときの状況が次の写真です。

左側の崩れている屋根が土蔵で、ここは道具の土蔵ではなくて、木地の材料を入れてあった蔵です。右側が先ほどの仕事場ですけど、大きく傾いて倒壊した土蔵に寄り掛かるような状態で、ぎりぎり崩れ落ちずに止まっていた状態でした。

それを、正面から見たところですね。

これは、池下さんのご自宅ですが、ご自宅のほうは、仕事場の裏側にあって、完全に崩れ落ち全壊した状態です。

これはその仕事場の中、整然と積み上げられていた木地が散乱した状態ですけれど、これを見たとき、僕は自分の魂がどこか遠い所に飛んでいってしまって、悲しいとか、つらいとか、苦しいとか、そういう感情がすっかりなくなって、空っぽになったような状態になって、そのときに、使命というのはちょっと違うのですが、命令がやってくるんですよね。ここを何とかしなきゃいけないと。

池下さんは地震が起きた直後にこの建物の外に出て、そこでへたり込んで座ったまま、2日間、動かなかったそうです。津波が来るというので、周りの人はみな避難をしていましたが、池下さんはこの工房の前に座り込んで、2日間ずっと動かなかったんです。そのとき何を考えていたのかと僕は思ったんですけど、池下さんは15歳で自分の家の職人になって、それから71年間、86歳までここでずっと仕事をし続けてきたんです。その最後にこれかよという絶望だったと思うんです。絶望したままの状態で、池下さんは死んでは駄目だと僕は思ったんです。そのときに、ここを再建しようと決意しました。

●池下満雄さんの工房の再建プロセス

1月28日に、この今にも崩れ落ちそうな工房の中に入って、木地の材料を全て運び出しました。僕が淡々と作業をしていると、不思議なことに、いろんな人が次から次にやってきて、助けてくれるようになりました。

僕の生まれは岡山で、輪島には輪島塗の修行をするためにやってきました。地元の輪島の工務店とか職人さんは全く機能しておらず、お手上げの状態だったのですが、岡山の僕の友達や知り合いの工務店、建築家のグループの方が、輪島を見るためにやってきました。そのときに、ここを建て直したいんだとお願いをして、それを聞いた工務店の社長さんが、今度は現場で働く大工さんを連れてきてくれて、ここが再建可能かどうかを見ていただきました。

柱が地震によって断裂してるような状態で、現場の大工さんが見ても、10人のうち9人はこれは無理だという話をすると思うんですけれど、たまたま来られた原田さんという棟梁が、僕のあまりの勢いに気おされたのか、これを直しましょうといってくれたので、スタートが切れました。そこに構造設計の建築家、それからデザインの建築家が来てくれて構造の検討をし、再建ができるということで、2月14日、加賀の温泉地に避難していた池下さんを訪ねて、再建してもいいかという許可をいただきました。

2月19日、地震が起きて50日目に再建工事を開始しました。全員岡山から来ていただいた職人さんで、テントで生活しながらの工事でした。まず内装を解体して、これ以上崩れ落ちないような補強工事をしました。建物を引っ張り起こすためのアンカーを設置して、ウインチを付け、ロープで引っ張るという工事を21日に始めました。

その日のうちにまっすぐ建て起こすことができました。日本の木造家屋というのは、どんな状態になっても、ちゃんと手をかければ元に戻すことができるということが分かりました。

池下さんのところに工事の進捗状況を報告に行って、それから、屋根瓦を撤去し、ルーフィング工事をして、耐震補強を柱に加えました。

同じ規模の地震が来たらまた倒壊する可能性があるというので、建築家の考えで既存の基礎の内側にもう一つ新しい基礎を造り、コンクリートで打設し、基礎工事が完了しました。

内側に新しい耐壁を造る工事を、重機を入れることができないので、手作業で行いました。

屋根の葺き替えは、瓦屋根が手に入らないので、ガルバリウム鋼板の平葺きで新しい屋根を造りました。実はこのガルバリウム鋼板は秋田製で、秋田のタニタハウジングウェアというメーカーさんが寄贈してくださったものです。外壁も補修しました。

1ヶ月が経った3月19日には内装工事が始まりました。電気工事をして、断裂した柱は新しい木材を接ぎ足す形で補修しました。

木地轆轤は専門性の高い機械なのですが、今日本には仙台に「ろくろ屋」という木工用轆轤専門の業者が1社しかないんです。仙台から輪島に来ていただいて、壊れた轆轤の修繕と新しい轆轤の設置をお願いしました。

そして、建具も元のように再建するということで、壊れた部分を補修しながら、新しい建具も同じようなものを用意していただきました。床の新設と、耐震金具施工の工事もしました。

3月26日には通電しました。床工事も完了し、新しい轆轤の試運転もしました。

池下さんには娘さんが2人いますが、跡継ぎはいませんでした。江戸時代から続いてきた池下さんの技術を絶やすことはできないと思い、僕の工房で働いている20代と60代の職人さんに、希望者が2人いたので、池下さんの弟子にして習わせたいと、そのお願いもしました。

3月26日。地震より86日目、工事開始36日目に、竣工しました。輪島で倒壊した家がまだそのまま、今も実はそのままですが、全壊した建物を初めて再建させた現場になりました。

これが出来上がったときの外観です。古い建物を再建して、一体どうするんだ、新しいものを建てればいいじゃないかという人もいましたが、僕はこの仕事場を美しいと思っています。輪島がやがてみんな更地になって、日本のどこにいるか分からないような個性のない町並みになる前に、僕はここが灯台のように、昔からあるいい輪島の町並みの一部として、それが少しでも残ればいいという思いで、この古い建物をそのまま再建しました。

再建された建物の中に木地材料や道具も全て戻しました。木地の轆轤というのは、床の高さが少し変わっただけで挽く感覚も微妙に変わってしまい、調整にずいぶん手間取りました。

4月14日に輪島でお花見をしたのですが、その翌日に池下さんは心不全の発作を起こし、入院してしまったんです。これでもうおしまいかなと思いましたが、その間に轆轤を3台に増設しました。そして、池下さん、2週間後に無事退院して戻ってきたものの、「わしは女の弟子なんか取らん」っていっていたのですが、なんとかお願いして弟子入りをOKしていただきました。

●新しい弟子2人と仕事を再開

5月2日に3人で仕事を始めました。木地師というのは、鍛冶仕事を自分でやって道具も自分で作ります。鍛冶場も復元しました。これは、打ちん棒という、轆轤に木地材料を固定するために打ち付ける道具です。一番左が、池下さんが15歳で弟子入りして71年間使ってきたもの。それと弟子が作った道具を並べています。材料は基本的に椿の枝と幹です。

5月9日に仕事を再開し、弟子の指導もしてくれるようになりました。順調で、でも、仕事場の周囲は全く変わらない状況で、今もほとんど変わっていないです。本当に池下さん、この日から鬼のようになって精魂込めた仕事をやり続けてくれました。「わしはこの2人を一人前にするまでは長生きする」ってこの日に約束してくれました。池下さんは僕に「本当に仕事は楽しい。ここを再建してくれてありがとう」と何度も繰り返しお話しされていました。

7月1日。仮設住宅に迎えに行ったら、池下さんはもう冷たくなっていて、安らかなお顔で亡くなられていたようです。

親方を失った2人の職人は、これからどうなるのか。木地の工房を続けて、池下さんから習ったのはたった2カ月半ですけれど、それを持続させたいと僕は決意をしました。これは最後の池下さんの仕事ですけれど、本当に光り輝いてるような木地で、僕もなかなか、いまだに手を出せていなくて、これから塗らなくてはいけませんが、とても美しい木地です。この2人を支援して、一人前にするために株式会社木地屋というのを設立し、そこに現役で輪島にいる職人さんたちを呼び込んで、株式会社として後継者の育成をしていくことに決めました。

●輪島塗とは何か

輪島塗というのは、たくさんの人たちが分業をして成り立っています。木地師、下地師、研物師、上塗師、加飾師。一つの器をいろいろな職人さんが順番に手をかけることによって、一人の個人の力を超えた超越的ないいものができていくというのが、輪島塗の特徴だと思います。僕は上塗りの専門職で、池下さんは木地の専門職としてあったんだと思います。この協働の力こそが、輪島塗の風土に基づいた力を支えているものだと思います。木地師だけでも、挽物師、曲物師、刳物師、指物師と分業していますが、そういう崩壊寸前の水平の分業があると同時にもう一つ、垂直の分業というのがあります。親方から子方へと受け継がれている徒弟制度というのがあって。僕は池下さんと仕事をすることによって、池下さんのお父さん、池下さんのおじいさん、そして、江戸時代に生きた職人さんたちと一緒に仕事をしているという感覚があります。それは僕は通時的な垂直的な分業だと思っているんですけど、そういう分業とそれから風土に根付いた水平の分業が重なり合ったところに、工芸性というものがあるのではないかなと思っています。

そういう工芸的な連続性をいかに取り戻すか。たった1分間の揺れ・地震でいろいろなものが壊れてしまいましたけれど、今、輪島の町並みはどんどん人間の手によって破壊をされています。その破壊を食い止めて、工芸的なもの、つまり、昔からあるものをいかに取り戻し、かつ未来へつなげていくかということを、工芸的というキーワードで僕は問いかけています。

その連続性の中にあるかけがえのないもの。例えば、池下さんが失われることによって、僕が作っている物が作れなくなっていきます。それは交換不可能なものなのに、震災の後に行われている復興というのは、交換可能性を前提とされています。ですから、東北で再建された復興された町並みと、輪島で再建され復興された町並みがほとんど同じもので、日本のどこなのか分からないようなものになっているんですね。それは風土や歴史の連続性から断絶されているものを作っているからなんです。そういう連続性の中のかけがえのないもの、つまり、交換不可能なものを再現するということを、僕は復興の中心に据えたいなと思っています。

工芸というものは、土着性、風土性といってもいいと思いますけれど、土地に根差しているもの。そして、その風土の外部にあるものといかに接続をするか。ここは僕は、伊藤先生の本と非常に目指しているところが近いと思っています。その土着性と精神性を結び付けたところに工芸性があって、交換不可能なもの、連続性の中にあるかけがえのないものを追求していくことこそが、「工芸とは何か」の答えになるのではないかと思っています。

今もこの小さな木地屋さんは続いていますが、池下さんが亡くなった後、今度は山根さんという76歳の職人さん、家と工房を同時に失ってしまったのですが、仮設住宅が出来上がり輪島に戻ってこられたので、この工房に来ていただき仕事が持続しているという状況です。今後も、持続していきたいなと思っています。


Profile

伊藤俊治:
1953年秋田県生まれ。東京大学文学部美術史学科卒業、同大学院人文科学研究科修士課程修了。東京藝術大学名誉教授。京都芸術大学大学院教授。専門の美術史・写真史の枠を越え、アートとサイエンス、テクノロジーが交差する視点から多角的な評論活動を行う。『ジオラマ論』でサントリー学芸賞を受賞。展覧会企画に「日本の知覚」(グラーツ)、「移動する聖地」(ICC)、「記憶/記録の漂流者たち」(東京都写真美術館)など。著書に『写真都市』、『トランス・シティファイル』、『生体廃虚論』、『電子美術論』、『バリ芸術をつくった男』、『増補 20世紀写真史』、『バウハウス百年百図譜』ほか多数。新刊『秋田 環日本海文明への扉』(写真:石川直樹)。

赤木明登:
塗師。1962年岡山県生まれ。編集者を経て、1988年に輪島へ。輪島塗の下地職人・岡本進のもとで修業、1994年独立。以後、輪島でうつわを作り各地で個展を開く。「写し」の手法を用い、古作の器を咀嚼した上で造形と質感を追求して作る器は、洗練されていながら素朴な暖かみを持つ。著書などを通じ普段の暮らしに漆器を使うことを積極的に提案している。著書に『美しいもの』『名前のない道』『二十一世紀民藝』など。拙考編集室を立ち上げ、新刊『工藝とは何か』(堀畑裕之との共著)を刊行。https://www.sekkousm.com/

石倉敏明:
芸術人類学者。1974年東京都生まれ。秋田公立美術大学「アーツ & ルーツ専攻」准教授。シッキム、ダージリン、カトマンドゥ、東日本等でフィールド調査を行ったあと、環太平洋地域の比較神話学や非人間種のイメージをめぐる芸術人類学的研究を行う。美術作家、音楽家らとの共同制作活動も行ってきた。2019 年第 58 回ヴェネチア・ビエンナーレ国際芸術祭の日本館展示「Cosmo-Eggs 宇宙の卵」に参加。共著に『野生めぐり 列島神話の源流に触れる12の旅』『Lexicon 現代人類学』など。新刊『〈動物をえがく〉人類学ー人はなぜ動物にひかれるのか』(山口未花子、盛口満との共編著)。

田村一:
陶芸家。1973年秋田県生まれ。早稲田大学大学院修了後、東京で作家活動を開始。2002年に栃木県益子町に拠点を移し制作。2011年より秋田県に戻り太平山の麓の工房で作陶に励みながら、「ココラボラトリー」(秋田)「白白庵 」(東京)などでの個展や、グループ展で作品を発表している。九州・天草の陶土を使用し、近年ではグレーの粘土や信楽の透光性のある土「透土」もブレンド。中国古陶の青磁や現代作家の青白磁に影響を受け、ガス窯を還元焼成で焚く。

撮影(輪島)|赤木明登
撮影(会場)|牧野心士(秋田市文化創造館)
構成|熊谷新子(秋田市文化創造館)
掲載日|2025年3月6日

記事

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