秋田市文化創造館

レポート

クロストーク
「秋田、能登、クンストハンドヴェルク (アートと工芸)」
レポート(前篇)

伊藤俊治(美術史家)+赤木明登(輪島塗師)
進行:石倉敏明(芸術人類学者)

日時:2024年11月4日(月休) 14時-16時
会場:太平山三吉神社総本宮 斎館2階
主催:辺境地点(田村一) 共催:秋田市文化創造館

新刊『秋田 環日本海文明への扉』(石川直樹氏との共著)を執筆した土崎出身の美術史家である伊藤俊治氏と、『工藝とは何か』(堀畑裕之氏との共著)を出版した輪島塗師の赤木明登氏による、太平山三吉神社総本宮斎館にて開催されたトークイベントのテキスト化です。三部構成となります。
前篇は、伊藤氏が、太平山三吉神社や三吉梵天祭の由来、秋田と石川(能登)の歴史的な交流を「工芸と霊性」という視点で語ります。中篇では、赤木氏が、能登半島地震直後から取り組んできた「小さな木地屋さん再生プロジェクト」の詳細なプロセスを、貴重な写真とともに紹介します。後篇では、芸術人類学者の石倉敏明氏が加わり、伊藤氏、赤木氏とともに、創造、戦争や災害による破壊、再生を絶え間なく繰り返してきた人類の営みや、今日におけるアーカイブの復権の意義などについて話しました。


前篇(伊藤俊治氏)

●はじめに

田村 こんにちは。皆さん、本日はお越しいただきまして、ありがとうございます。伊藤俊治さんと赤木明登さんの対談を、開催できるのがとても嬉しいです。僕は、このイベントを主催させていただきました、陶芸家の田村一と申します。

この建物は太平山三吉神社総本宮の斎館といいまして、山に登る方が前泊するとか、宴会を開くとか、警備の詰所にもなる建物です。僕が子どもの頃、父や叔父、それと神社の関係者の方々が、この広間で飲んでいて、その中で自分は遊んで育ちました。祖父と叔母が階下に暮らし、僕もここから学校に行ったり、帰ってきたりもしていたので、半分お家みたいな、思い出のある所です。父が現役だった頃は、今日のように車座になり、「シルクロード」というNHKの特集をみんなで見て、ああでもない、こうでもないと話をした記憶もあります。なので、またここに集まって話をしたいなと思っていました。

学生時代、僕にとって、伊藤俊治さんは写真論の先生で、まさか秋田の方とは存じ上げなくて、伊藤さんが企画された展覧会によく行っていましたし、伊藤さんがお書きになられた本も何冊か拝読しました。

赤木明登さんは、(2024年の)3月にも秋田にいらっしゃって、文化創造館で、能登半島地震の話をおうかがいしました。その後、能登には大雨の被害もありました。僕は6月に輪島に行ったのですが、地震の跡が壮絶で、自分には何ができるんだろうと思いながら秋田に戻ってきたところの豪雨でしたので、心苦しく、また輪島には行かないといけないなと思っています。

田村一さん(陶芸家)

3月に赤木さんが創造館で話された時に、話題となりました木地師の池下満雄さんが、7月に亡くなられました。今日はお話を始める前に、池下さんに献杯したいと思います。皆さん、お手元にお水や、それとお酒をご所望の方がいらしたら、ここに杯と、3月にも献杯のお酒を持参してくれた新政酒造の、今日は「陽乃鳥」という貴醸酒の十周年記念酒があります。2008年に発売されたものです。

SYSTEM 7というテクノユニットがいまして、新政酒造の佐藤祐輔社長のフェイヴァリットアーティストで、僕も大好きなのですが、彼らが「三吉節」という梵天祭のときに歌う民謡をサンプリングした曲を作ってくださり、そのCDと一緒に出たお酒です。いつ開けようかなとずっと思っていましたが、今日がそのタイミングではないかと思いまして、持ってきました。

では、池下満雄さんと、輪島の皆さんに、献杯。

一同 献杯。

●伊藤俊治さんのお話ー太平山三吉神社について

伊藤 ここには小さい頃から何度も訪れています。登拝の霊地として、さまざまな神仏混交の要素を持った太平山ですけれど、山そのものをご神体とするこの太平山三吉神社は、風土や景観と強く結びついた信仰で、今も先人たちの祈りの功績を残している特別な場所のように思います。

僕が特に引きつけられたのは、新刊『秋田 環日本海文明への扉』でも書きましたが、日本海に臨む形が神様を迎えたり、神様を送ったりする「型」を持っているということでした。羽越線を走っていくと、日本海を臨むたくさんの墓地があることに気づきます。

先日、NHKで「ドキュメント72時間」という番組をやっていて、鳥取の海辺の花見潟墓地という自然発生墓地、2万以上の墓地がある中で行われるお盆の行事を、72時間、ドキュメントしていました。それぞれのお墓で迎え火が焚かれ、無数の灯籠がともり、先祖の霊を招き寄せるシーンがずっと放映されていました。

太平山三吉神社は、かつて太平山大権現と称していました。由来として、祭神は太陽と月と星の三つの光の三光天子で、本地は虚空像菩薩であると書かれています。

伊藤俊治さん(美術史家)

虚空像菩薩は、サンスクリット語で、アーカーシャガルバといいます。明けの明星の化身です。アーカーシャガルバは、もともとは「虚空の母胎」という意味です。ボイド(化身)ですね。広大な宇宙のような無限の知恵と慈悲を持つ菩薩を表しています。

例えば、その宗法は、一定の作法にのっとって、真言、サンスクリット語のマントラを100日間かけて100万回唱える、厳しい命懸けの修行でした。荒行の後に経典を記憶する力が飛躍的に増大するといわれます。その苦行によって、自分の中に眠っていた聖性を揺り動かす。

よく知られているのは、空海が室戸岬の洞窟にこもって、この宗法を修した伝説です。この世にあるこの体で仏になる。虚空像菩薩像にはいくつかの型があって、刀と宝珠を両手に持つとか、印を結んだ手の中に五輪塔を持つとか、右の手のひらを見せて下げる印を結んで左手に宝珠を持つとか。いずれも手の所作が非常にシンボリックです。

これは、有名な法隆寺の百済観音ですけど、この百済観音も明治までは虚空像菩薩と呼ばれていて、その手の繊細な美しさが印象に残る像です。

先ほど三光天子といいましたが、三つの光、三光と呼ばれる太陽と月と星の信仰は、今、伝えられている資料からはほとんど見えてきません。推測するしかないのですが、仏教が伝わる以前の日本の古い山岳信仰が土台になっています。大陸から日本海を渡って日本列島へ入ってきたと想定される。山を神とする信仰は、日本列島ではるか以前から続いてきました。 

太平山三吉神社は、みちのく開発のパイオニアといわれている円仁すなわち慈覚大師が、その師である最澄が祀った奈良県桜井市にある大神(おおみわ)神社を遷座したという説もあります。日本最古の神社ともいわれる大神神社は、原始的な神道の形を残します。ここも本殿は持たないで、三輪山への原初的な信仰を基盤にしている社です。山そのものが御神体ですね。酒蔵の杉玉の発祥地としても有名です。

三つの光を合わせて三輪、「三輪ノ神ト云エリ」という記述が残っています。100万回唱える修行は、満月の日の清澄な山中でマントラを唱える。記憶力をさらに高めるには、赤銅色をした満月の夜に蘇と呼ばれる古代チーズをなめながら神言を唱える、というのが修行でした。そのため、虚空蔵菩薩図には月の輪が盛んに用いられています。月の輪の中に菩薩を置く。

17世紀に書かれた『太平山伝記』という書には、慈覚大使が山の中に入ると「北斗七星」が現れて、「大五里ヲ以テ結界スベシ」という言葉を残して消え去ったという伝承も残されています。この社内も、往時の名残として、星宮神社もあり、星辰信仰というのかな、天体信仰の記憶を残すものがあるということをお聞きしました。

はるか昔の星辰信仰の名残について触れましたが、三吉神社の由緒書きには、673年に役の小角が創建して、801年に坂上田村麻呂が東夷征伐の戦勝祈願のために堂を建立したと記されていました。でも、それ以前から修験の山として、太平山信仰は行われていて、力の神である三吉さんが祭られてきました。田村さんの後ろに控えていますけれど。先ほど田村さんのお話にもあったように、歴代の佐竹公の崇敬も厚く、ここはもともと佐竹藩の雪見殿だったとされていますけれど、太平山を遥拝するようにと、この地を寄進されたという記録が残っています。

●秋田と石川

今日は赤木さんが輪島からいらっしゃっているので、秋田と石川の関係について少し触れます。本の中に書いてありますので、関心のある方はぜひお読みいただきたいのですが、男鹿半島と能登半島は「きょうだい」であると、『秋田 環日本海文明への扉』に書きました。12世紀に『今昔物語』という有名な物語がありますけれど、『今昔物語』では、日本海に面した長い海岸線を有する輪島の光浦が、鬼ノ寝屋島、現在の七ッ島だといわれています。その島で海女たちがアワビを捕っていましたが、能登守の藤原道宗が貢納を強制したために、海女たちは越後の国に逃亡して、光浦は無人になってしまったという物語が書かれています。

能登半島から日本海沿いに越後へ、さらに出羽の国へ、新しい土地を求めて移動するルートが浮かび上がります。男鹿半島にたどり着いた能登の人たちは、風土や気候が似ていたために落ち着こうとしたのだと思いますが、輪島には北前船の海鮮問屋として活躍した角海家という家があって、その旧角海住宅は有名な重要文化財になって、現在も残されています。戦国時代には、浄土真宗の弾圧があって、京都から越前・能登・越後まで流れていった人たちもいました。

北前船は、黒潮から分岐した対馬暖流を使うルートですね。20度を超える暖かい海流です。この対馬暖流を使う航路で、輪島から新潟と酒田を経由すると土崎です。瀬戸内海を経由するルートの他に、福井の若狭湾で陸上げして琵琶湖を経由し、淀川を下って難波に至る内陸水運ルートもありました。だから、能登半島には京都から宮大工や漆職人、たくさんの職人集団もやってきました。

地形的にも風土的にも、能登は、大陸とか出雲とか京都の文化が合流して生まれた場所です。各々の地域の人たちが日本海から北前船を経由して秋田にやってくる。今日は会場に、吉原写真館の吉原悠博さんが新潟からいらっしゃっていますけど、新潟には寺泊のそばに彌彦神社というのがあるんですね。この神社の成り立ちも、米や塩作り、酒造りを、越後に伝える重要な役割を果たしてきました。そしてそういう技術や文化を伝えたのは、修験道の山伏だったという一説があるんですね。鉄や銅を求めて、海に沿って、山に沿って移動していた人たちが、彌彦周辺の産業をもたらしたという説があります。

『秋田』の本の中で、石川県の羽咋にある北陸屈指の大社である氣多大社について、折口信夫に言及しながら触れています。この氣多大社のすぐそばに折口の墓があり、そのことを書きました。能登國一宮氣多大社というのは、朝廷からの尊崇が厚く、8世紀以降、東北経営とか、あるいは新羅や渤海といった大陸半島を中心にした対外関係と強く結びついていました。

●折口信夫の『死者の書』

戦前ですけれど、例えば男鹿の町の店々には、輪島塗の什器がたくさん売られていました。海流でつながっていたために、古くから能登と男鹿の血は混じり合っています。男鹿半島には折口信夫が登った能登山があって、今の船川の椿町です。一方、能登の門前町では、石川直樹さんが撮っているように、アマメハギという奇怪な面を付けた鬼が、ナマハゲと同じように、家々を巡り歩く行事も行われています。

折口の代表作に『死者の書』という本があります。深夜に古い物語を語り続けて、クライマックスに達すると、わなわなと震え、一種の忘我状態に入り、突然歌い出します。歌い終わるとぐったりして、しばらくするとまた語り出す。この語りの原型は、日本海沿いを移動して歩いていた巫女やイタコです。そういった一種のシャーマン、神がかり的なものが日本海ルートにはあった。神が人に乗り移って、その乗り移った神人の歌が、聴衆にも乗り移っていくという仕組みがかつてありました。

折口は「春来る鬼」というエッセーで、男鹿の春に来る鬼が海からやってきて、太平山の三吉神社へ登っていく古代の信仰と、能登の石動山との関係性についても述べています。男鹿は、男の鹿と書きますけれど、古い日本の言葉の「おがたま」を表すという人もいます。招くという意味ですね。

太平山三吉神社は先ほどお話ししたように、修験とか星辰信仰をベースにして、太陽と月と星を神秘的な力の源泉としてあがめてきた場所です。渡来人によって、7世紀、8世紀にもたらされた妙見信仰とも通じています。

星辰信仰というのは、古代バビロニアに端を発して、天文学が発展していたインドや中国で重んじられてきました。能登の石動山は、天から石が降ってきた石伝説を持っています。だから、石動山の別名はイスルギ山とか、ユスルギ山です。開山717年といわれていて、この山も修験道とか星辰信仰の聖地になっています。

日本海の海流沿いの秋田と石川には、こういう興味深い関係がさまざまに張り巡らされていると考えられます。ここから工芸と霊性の問題に移っていきます。

●工芸と霊性

太平山が修験の場として栄えたといいました。修験は仏教以前の日本文化の古層に横たわっています。山の中にこもって修行する山岳修験では、座禅瞑想して、山や森を駆け回り、石や岩や川に神様が宿っていることを体感していく修行です。そういう苦行というのは、運動を通して体のあちこちの関節を開いて、心と体を宇宙と対応させていく仕組みの一つでした。人間を自然の中に解き放つという思想が、古代の日本文化の基層に横たわっています。苦行というのは、体を、自然の奥に潜む原自然といったらいいのか、深い自然と出会わせる技ですね。通常の日常的な意識が経験している自然とは異なる感覚や思考を立ち上がらせます。激しい行を通して、われわれの日常意識の奥にある自然層に一種の装置を下ろしていくというか、行を積み重ねることで、宗教以前に人間が実践していたことを体験し直そうとする試みです。

農耕社会にとって、山は異界でした。山は鬼の住む所、神様の体内です。その神の懐の道場で神様が人間を鍛えてくれる。霊性を目覚めさせてくれる。悟りを開いたり、神の心とダイレクトに触れ合ったり。密教の即身仏思想や、山岳をマンダラと見做す宇宙観というのはそこから生じています。修験にとってのイニシエーションとは、峰入り(みねいり)という儀式なんです。

山の中を駆け巡って命懸けの修行をすることで、生命プロセスを圧縮して体験する。生から死へ、死から生へ、さらに再生へという命の循環を直に感じ取れる仕組みでした。

日本の山は、世界にも類例がないくらい、いろいろな川があり、谷があり、湖があり、湿原があり、谷が続き、地形が多様です。そういう山々を生み出した原因には、地質や自然条件の複雑さ、例えば冬に強い風が吹いて山の形を変えていくとか、雪が多いとか。ヒマラヤ山脈の南と北を迂回してやってくるジェット気流が、ちょうど日本列島の冬の上空でぶつかります。そのため、ものすごく強い風が起こる。ヒマラヤが大気の循環の変化に強く左右して、その風下の日本列島へ下りてくる。秋田も石川もその直撃地です。

●工芸とは

工芸とは、そういう自然環境や条件と強く結びついています。工芸は手で作られて手で生まれます。手は創造の道具ですけれど、それ以前に認識と感覚の器官でした。手は神秘的で精神的なものです。

僕が影響を受けたアンリ・フォシヨンという作家に『かたちの生命』という本があります。1930年代終わりに書かれた本ですけど、そこでアンリ・フォシヨンは、私は手を身体からも精神からも切り離しはしない、手と精神は主従関係ではなく、精神は手が作り上げるものだし、手は精神が作り上げるものだ、といっています。手は日々の中で内面の生活に絶え間ない作用を及ぼしている。手は人に広がりとか重さとか、密度、気配、質感、数、そういったものを教えてくれます。また土、木、金属、植物と関係して、変化させていく。手は人を導いて、空間や時間を分節化し、それらを統合したり分散させたりしています。具体的に言うと、手の表皮にはたくさんのしわがあって、ざらざらしています。

絶えず、このしわから無色透明な液体が分泌されています。この液体は手の皮膚を守って、物を摑みやすくします。手が物に触れると、この分泌物は触れた物に付着して、版画とインクの関係みたいにして、触った物に指紋を残す。器とかガラスに残る指紋というのは、一種の油脂成分ですから、手は体を触って体に異常ないか、いつも確認しています。手当てという言葉がありますけど、体に痛みとかしこりがあると、手は自然にその箇所を探して手を当てているのですね。指紋は、指先を敏感にして物を扱いやすくするためにあって、指先には圧力を感じる感覚点と神経が密集しています。指の平面が全く指紋がなくて扁平なら、小さな粉とか砂を摑んだときに、その微妙な感触とか大きさを判別することはできないですね。人は手の動きによって、いつも鋭く感知し続けている。

同様に、人間の脳の活動も、指紋と同じように個々人を特定できる。これを脳指紋といい、脳指紋と呼ばれる脳波パターンを発しています。手と脳はダイレクトに結びついています。脳は外部から刺激を受けると、無意識下で記憶の膨大なアーカイブと照らし合わせ、過去の情報がその刺激に含まれているかどうかを確認すると、その特定パターンを発する。先ほどいったように、工芸とは手の動きによるものです。手を通して、人の技をはるかに超えたものが物質化される。手によらなければできないものがある。そこに風土的な特色とか民俗的な条件が表れて、手の動作によってその仕事に一種の喜びのパルスというか、喜びの振動が生まれてきます。

さらに言えば、手は心とつながって、心を超えたものともつながっています。手を通っている神経って、神経は「神が経る」と書きますけれど、手を通して私たちは人間を超えたものといつも出会っている。そういう手の特殊性をいかにして、物の形に移し替えるかということが日本人が最も大切にしてきたことで、日本が工芸王国になったのは、日本人がこの手の力の制御・コントロールにたけていたからだと考えることができます。日本人が手を通して伝わってくるものを敬い続けてきたといえます。

●柳宗悦と柳宗理

民芸工芸の主導者だった柳宗悦の息子の柳宗理という人がいます。本の中でも書きましたけど、日本を代表するインダストリアルデザイナーに彼はなりますが、彼もまた、手からデザインを生み出すことにこだわり続けました。工業デザインって、機械生産だと、皆さんは思われると思いますけど、柳宗理は石膏で模型を作り、それをもんだりこねたり何十回と試作を繰り返すことでフォルムを生み出していきます。そこには図面からでは到底、起こせない、手のひらで練られた柔らかな曲面が生まれてきます。制作の段階だけじゃなくて、デザインって、繰り返し反復して使うことで美しさを増していきます。

なぜ手で濾した紙が温かみを帯びるのかとか、なぜ自然のままの色に間違いがないのかとか、なぜ太陽の光で干すと味わいが出てくるのかとか、なぜ冬の冷たい水が紙の質を守ってくれるのかとか。それは人間がコントロールできない自然の滋味というか恵みが、その瞬間だけいっそうあふれて現れてくるからだ。これは柳宗悦がいったことですけど、手で物を作るということは、自然の恵みのありさまをドキュメントする・記録することである。柳宗悦が評価した秋田の工芸に、能代の春慶塗があります。

●鈴木大拙の『日本的霊性』

最後に、石川県が生んだ二大偉人、宗教学者の鈴木大拙と哲学者の西田幾多郎という人の話をします。2人は石川県立専門学校の同級生で、同級生だった藤岡作太郎と合わせて、加賀の三太郎と呼ばれていた人たちです。ちなみに、藤岡作太郎の長女は、僕の本の中でも触れた雪の博士の中谷宇吉郎の奥さんです。そして中谷宇吉郎の弟は、中谷治宇二郎という考古学者なんですね。神が作りたもう雪の結晶を世界で初めて人工的につくり出したパイオニアが中谷宇吉郎です。鈴木大拙は谷口吉生さんの建築で、金沢に記念館があります。西田幾多郎は安藤忠雄さんが設計して、石川の宇野気に記念館が造られています。

鈴木大拙は、工芸・民芸の主導者だった柳宗悦の学習院時代の恩師でした。彼らの交友というのは、生涯にわたって続き、柳は鈴木の思想から大きい影響を受けています。鈴木が太平洋戦争中の1944年に、日本人に向けて発表したのが、この『日本的霊性』という本でした。

軍国主義・国家主義が声高に語られている中での一種の抵抗文学だというふうに今では評価されていますけど、この本の中で鈴木大拙は、霊というのは生命が生きていることの印であると定義したんですね。霊は動いていて、生命体の中に入り込んだり、生命体から抜け出したりしている。生命が生きているとき、霊はその体を通していろんな輝きを放ってくる。生命がある所ならどこでも霊は活動して、一種の生命原理のようなものになっている。そう鈴木大拙は指摘しました。

鈴木大拙という人は長くアメリカで暮らして、アメリカ人に向けて禅とか仏教のありようを示して、一時期ノーベル平和賞の候補にもなりましたけど、戦争中に、日本に向けて霊性とは何なのか、また日本独自の霊性があるとすれば、それはどのようなものなのかと問い掛けたんですね。霊性というのは普遍性をもって、特定の国家とか人種に限定されるものではない。しかし、同時に霊性は民族とか地域において、それぞれに応じた特別な方法で現れてくる。それゆえ、霊性の普遍性は天を覆うようにしてあるのではなくて、大地から湧き上がってくるものとして現れる。霊性は観念の化け物ではなくて、大地に深く根を下ろした、一種の生命力そのものだといいます。

「すなわち日本的霊性があり、日本人を通して日本を目覚めさせ続ける霊性というものがある。」そう、この本の中で鈴木大拙はいっています。このとき、初めて日本的霊性という言葉が使われたんですけど、日本的霊性を鈴木大拙は、英語でJapanese spiritualityと訳しました。spiritualityはラテン語のスピリチュアリタスから、つまり「呼吸」という言葉から発生した言葉です。霊は呼吸のように生命体へ吹き込まれたり、吐き出されたりする。鈴木は、さらに霊性と精神というのを区別しようとします。精神は物質との二元論を土台にしたもので、対して霊性は、精神と物質の両方に流れている。というよりも、精神と物質が実は一つのものであることを感知できる心のことである、そういったんです。鈴木のこの言葉は、工芸の精髄を表しています。霊性は陶器やガラスや染織にも流れています。それらの工芸は生きているように見えるですね。その霊性を感知するためには、自分の内部にも霊性を目覚めさせる必要がある。

●三吉梵天祭

太平山三吉神社の梵天行事に触れて締めくくります。太平山三吉神社というのは、お正月1月17日に梵天祭を行います。折口信夫は梵天のことを「髯籠(ひげこ)の話」という短い文章に書き、来訪神の儀礼で立てられる柱状のものに注目しました。その柱を目指して、神々が降りてくるんですね。やってくるのは海のかなたからであり、後には山岳信仰も影響して、山の上とか天から来るものと、だんだん変化していくこともありましたけど、例えば、岸和田のだんじりの山車、山の上にも大きい髯籠が据えられます。

髯籠のヒゲって、竹竿の先に付ける飾りです。標山という言葉がありますけど、これは神の天降りに先立って、神を祀るためにインストールする山形の造形物のことをいいました。もともとは長い信仰の生活の中で生み出された、一種の民芸だったと思うんですね。

どのようにして神様を導く目印にするのか。はじめは最も天に近い高い山の木を目印に、もっとも神々の目に触れそうな場所に依代や招代として、人からいえば招代として設置しました。やがて山車や造形物になって移動しはじめます。神霊を一カ所に集めるこの招代がないと、神はどこに依り付いたらいいか分からないですね。高い峰の竹の頂に降りるように、そのこずえには御幣を垂らします。

だんじりは標山の山車ですけれど、中央に棒があって、そのこずえに依代を付けて本体にします。祇園の祇園祭の山鉾も同じで、赤の袋で山の形を作って、髯籠という竹が放射したものに天幕を取り付けます。その下に十数本の棒を通して、無数のちょうちんを何段にもかけ連ねて、夜になると日をともす、竿燈みたいですね。

以前は髯籠の由来である、編み残しのヒゲが最も重要でした。かごは白神、白い神をかたどって、ひげは光の輪、光輪とか後光を意味しました。それが竿燈にたなびくさまは、古代の人たちに、日神、太陽の神の姿を連想させたと思います。

しかし、当初の単純形がだんだん変化して、形式化し観念化して、何のことか最後には分からなくなってしまったというふうに、折口は嘆いています。深い山から竹を切り出してきて、竿状にして、その先に印を付ける。竿は高くて、髯籠の形も単純でしたから、この象徴は、それを取り巻く人たちの心に鮮明に焼き付いたと思います。

僕は50年くらいインドネシア研究をしていますが、髯籠はインドネシアのバリ島のペンジョールにそっくりです。バリ島では、今でもこのペンジョールは神を迎え、送り出す際に、神が降り立って、そこから旅立つ印として、ガルンガンとかクニンガンという210日に一度の大祭の際に竹を切り出してくるんですね。

夜にそのたなびくさまを見ると、本当に神様が揺曳しているかのように見えます。修験道の梵天も、そのバリアントだと考えます。関西では張り子をボテといいます。東北の羽黒信仰とか山岳信仰の修験が盛んな所では、梵天というのは幣束のことで、その形もアイヌのイナウの変化したものだというふうにいわれています。神は社殿にいるのではなくて、祭礼のときに他所に降臨して、それぞれの社に赴くもので、帰るときも同じようにして、同様の場所から帰っていきます。だから、髯籠とかペンジョールは神の動きの形であり、神の振る舞いの形でした。工芸にもそのことは受け継がれていると、僕は考えています。手を介して神は降りてくる。私には手を介して霊性が外からやってきて、手を動かして物を作り出しているように思えます。

今の日本はしかし、そういう霊性の形式を見えなくしてしまいました。この形式の不在とは、われわれ自身の生きることとか、死ぬことの不在と重なっています。霊に対して、しかるべき形を与えられなくなった世界では、人は死後も実は死者として新たな存在を与えられることが、忘れ去られてしまいました。生者は、生きている人は、やがて死者として、新たな生を生きていかなくてはいけないことへの想像力を欠如してしまっている。その想像力を変えていかない限り、われわれの未来はないように個人的には考えています。

Profile

伊藤俊治:
1953年秋田県生まれ。東京大学文学部美術史学科卒業、同大学院人文科学研究科修士課程修了。東京藝術大学名誉教授。京都芸術大学大学院教授。専門の美術史・写真史の枠を越え、アートとサイエンス、テクノロジーが交差する視点から多角的な評論活動を行う。『ジオラマ論』でサントリー学芸賞を受賞。展覧会企画に「日本の知覚」(グラーツ)、「移動する聖地」(ICC)、「記憶/記録の漂流者たち」(東京都写真美術館)など。著書に『写真都市』、『トランス・シティファイル』、『生体廃虚論』、『電子美術論』、『バリ芸術をつくった男』、『増補 20世紀写真史』、『バウハウス百年百図譜』ほか多数。新刊『秋田 環日本海文明への扉』(写真:石川直樹)。

赤木明登:
塗師。1962年岡山県生まれ。編集者を経て、1988年に輪島へ。輪島塗の下地職人・岡本進のもとで修業、1994年独立。以後、輪島でうつわを作り各地で個展を開く。「写し」の手法を用い、古作の器を咀嚼した上で造形と質感を追求して作る器は、洗練されていながら素朴な暖かみを持つ。著書などを通じ普段の暮らしに漆器を使うことを積極的に提案している。著書に『美しいもの』『名前のない道』『二十一世紀民藝』など。拙考編集室を立ち上げ、新刊『工藝とは何か』(堀畑裕之との共著)を刊行。https://www.sekkousm.com/

石倉敏明:
芸術人類学者。1974年東京都生まれ。秋田公立美術大学「アーツ & ルーツ専攻」准教授。シッキム、ダージリン、カトマンドゥ、東日本等でフィールド調査を行ったあと、環太平洋地域の比較神話学や非人間種のイメージをめぐる芸術人類学的研究を行う。美術作家、音楽家らとの共同制作活動も行ってきた。2019 年第 58 回ヴェネチア・ビエンナーレ国際芸術祭の日本館展示「Cosmo-Eggs 宇宙の卵」に参加。共著に『野生めぐり 列島神話の源流に触れる12の旅』『Lexicon 現代人類学』など。新刊『〈動物をえがく〉人類学ー人はなぜ動物にひかれるのか』(山口未花子、盛口満との共編著)。

田村一:
陶芸家。1973年秋田県生まれ。早稲田大学大学院修了後、東京で作家活動を開始。2002年に栃木県益子町に拠点を移し制作。2011年より秋田県に戻り太平山の麓の工房で作陶に励みながら、「ココラボラトリー」(秋田)「白白庵 」(東京)などでの個展や、グループ展で作品を発表している。九州・天草の陶土を使用し、近年ではグレーの粘土や信楽の透光性のある土「透土」もブレンド。中国古陶の青磁や現代作家の青白磁に影響を受け、ガス窯を還元焼成で焚く。


撮影(会場)|牧野心士(秋田市文化創造館)
構成|熊谷新子(秋田市文化創造館)
掲載日|2025年3月6日

記事

クロストーク「秋田、能登、クンストハンドヴェルク (アートと工芸)」レポート(後篇)

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クロストーク「秋田、能登、クンストハンドヴェルク (アートと工芸)」レポート(中篇)

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インタビュー「チャレンジマーケット出店者を追いかけて」

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