「かえるくんのどうする!?ラジオ」第1回
-藤浩志×永田宏和- 【前半】
収録日:2021年3月22日(月)
主催:秋田市文化創造館
秋田市文化創造館館長 藤浩志が、動くサテライトスタジオをひいてキニナル人とトークを繰り広げるラジオ的プログラム。第1回目のゲストは、デザイン・クリエイティブセンター神戸(KIITO)の副センター長(※2021年4月よりセンター長)の永田宏和さん。KIITOのこれまでの取り組みについてご紹介いただきながら、KIITOと開館したばかりの秋田市文化創造館の展望を語り合いました。
藤 「かえるくんのどうするラジオ」第1回目は公開収録になります。いろんな方たちと、「どうする? 何する? そうする?」という話をしていきたいと思っています。
本日はゲストに、デザイン・クリエイティブセンター神戸(愛称:KIITO/キイト)のセンター長、永田宏和さんにお越しいただいております。よろしくお願いします。
永田 よろしくお願いします。
藤 永田さんとは、かれこれ20年のお付き合いですね。まずは、私から、この秋田市文化創造館についてお話してもよろしいですか。
永田 どうぞ。
秋田市文化創造館について
藤 ここ、僕らがいる建物は、もともと県立の美術館であり、平野政吉美術館とも呼ばれていました。1895(明治28)年に生まれ、秋田の資産家として大正、昭和と商いをなさっていた平野政吉氏が、1934(昭和9)年、藤田嗣治の絵画に出会って、作品を買い集め、パトロンとして藤田を応援していました。その結果、コレクションができて……少し長くなりますが……
永田 どうぞ。
藤 それではお話をさせてください。藤田嗣治は1886(明治19)年生まれです。僕のおじいさんが生まれた頃でもあります。藤三太郎という名前で、奄美大島で生まれ、船大工、宮大工をやっていました。そして藤田が生まれた翌年、1887年は、東京藝術大学の前身である東京美術学校ができました。意外と新しいですよね。僕のおじいさんが生まれた頃、やっと東京に美術専門の学校ができた。そのさらに前、1880年には京都市立芸術大学の起源となる画学校が、そのもっと前1865年にはパキスタンのラホールという町にアジアで最初のミュージアムができた。
近代の西洋諸国に刺激を受けて、美術大学ができ、若い人たちが学ぶわけです。写実主義とか、印象派とか入ってくるのですが、藤田は反発して、自分がフランスに行き、日本の文化をある種踏襲した独自の絵画表現を展開していく。これも僕には非常に興味深いですけども。その若い人たちが美術大学を卒業し、絵描きになり、彫刻家になり、その方たちが亡くなる頃、40年くらいたったとき、1926(大正15)年、これは僕の父が生まれた年ですが、初めて日本に東京都美術館の前身である美術館ができる。いわゆる団体展ができるような美術館です。僕の姉が生まれた頃1951年には神奈川県立近代美術館という最初の公立近代美術館ができます。開館記念に「セザンヌ・ルノアール」展をやるような。そしてここ、秋田市文化創造館の建物ができたのは1966年。
永田 開館は1967年ですね。
藤 藤田嗣治が1937年に描いた絵《秋田の行事》を収めるために、30年後、この建物が美術館として開館しました。藤田嗣治は次の年フランスで亡くなっています。ついぞ、ここには来られなかった。つまり何が言いたいかと言うと、日本の近代化に反発しつつ、ヨーロッパに行き、日本に戻ってきて、各地を回りながら制作したある画家の意志があり、それをどうにか踏襲して次の世代に伝えようとここができました。僕が7歳のときです。
ここは近代美術館として、平野政吉さんがコレクションした藤田の作品を見せる場所として建ちましたが、老朽化ということで2013年に広小路の向かい側に新しい県立美術館を安藤忠雄先生が造った。そうすると、ここは役割を失うわけですよね。
建物をどうしようかということになって、リニューアルして、新しい活動をつくっていく場所として、つまり美術館としてはいったん耐震構造の件もあって機能を失いましたが、だからこそ新しいものをつくる場所として開いていきましょうと。ここは千秋公園という、秋田駅からすぐ近くの久保田城跡が公園になった所にある建物で、城跡を公園にするという歴史もまた面白くて、日本の中では非常に先進的な事例です。
若い人たち含め、年齢、性差、職業問わずだと思いますが、いろんな人たちがいろんな新しいイメージを受け取りながら、何か活動を実験的にどんどんつくっていく次の時代の、つまりここは遺伝子的には、明治、大正、昭和を受け継ぎながら、平成の時代に一回閉じたわけですけども、リニューアルして、令和に始まり、さらにその次の時代、もしかしたら、さらに次の時代まで引き継がれる。「200年をたがやす」というタイトルの展覧会が始まりましたけれど、次の200年、そのまた200年、400年のスパンで考えていくような、そういう重要な場所だと思っています。
そして今日は、神戸でデザイン・クリエイティブセンターのKIITOという場所の運営をやっておられる永田さんのお話をうかがう機会を得ました。僕らがここでやろうとしていることと重なるところもあると思うので、アイデアを学んで、大きくはまちづくり、もしくは社会をつくっていくことはどういうことなのか、どういう問題があるのかということも含めて共有していければと思います。
空間の恩恵
永田 1人目に呼んでいただいて、光栄です。今、お話をうかがって、KIITOとこの文化創造館は親和性があるなと思いました。もともとの建物の機能が違うところも。ここは美術館でしたね。KIITOの場合は……
藤 生糸検査所ですね。
永田 そうです。もう100年近くたっています。KIITOという名前の由来になっている生糸検査所で、シルクをつくっていたわけじゃなくて、つくられたものが運ばれてきて、検査をして、等級分けをして、港町神戸から船に乗せて海外に輸出するための、検査をするセンターでした。
藤 昭和のはじめですか。
永田 できたのは1927(昭和2)年です。旧館と新館は5年しか変わらなくて、新館は1932(昭和7)年。1万4000平米あって、少々扱いに困るくらい大きい。2008年に神戸市が「デザイン都市・神戸」に認定され、その拠点施設として2012年にオープンしました。
藤 内装やリノベーションは、どこが手掛けたのですか。
永田 2012年のときは、佐藤総合計画さんです。僕はそれにはタッチしてなくて、コンペだと思います。今、これまで使ってなかったスペースの内装改修をしていますが、3期目の指定管理者を選ぶコンペに、改装のデザインも含まれていたんですよ。
藤 素晴らしいですね。
永田 工事も含まれていました。神戸市さんは、そのあたりも指定管理者に委ねるという判断をしてくださって、ただ歴史的な建物なので、調整が簡単ではないですが、こちらが思っているスペースをつくっていけるという意味では、非常によかったです。開館時の佐藤総合計画さんは、建築基準法もクリアして、大臣認定も取得して、天井を昔のまま残していた。木の腰壁も、本当は、難しいんですよ。それも大臣認定を取って。フローリングもすごくいいです。
藤 床、古いままですね。
永田 そうです。
藤 永田さんは、僕が出会った頃は、竹中工務店の社員でしたね。建築設計から始まり、都市計画をやられて、旧神戸移住センター「CAP HOUSE」でリノベーションの計画をするときに、アーティストと接点をつくり始めたという話をうかがって。
永田 建物の力というか、もともとちゃんと造っているものは、無駄なことをしなくていい。
藤 今は予算の関係でどうしても安っぽいものになってしまいます。
永田 それは思いますね。KIITOの開館時、デコラティブなことをしなかった背景には、耐震補強に工事費のおおかたを使わなければならなかったという背景もあるようです。この空間だからこそ支えられる活動というのは、やはりある気がします。
藤 僕は、京都の大学時代、仏像やお寺が好きでした。妙心寺の加納探幽の雲龍図、龍安寺の庭もそうだけれども、大好きな広隆寺の弥勒菩薩半跏思惟像、三十三間堂の千手観音像など、建築の一部として作品がそこあるということを、学生時代に学びました。
永田 なるほど。
藤 だから今ここで働くことも、神戸の巨大な検査所も、その空間の中にたたずんで、そこで対話することで感じるものは、もともと教会建築もそうですし、寺院建築もそうですが、人の心を高揚させます。
ブランディング
永田 指定管理者として企画部門を僕の会社(株式会社iop都市文化創造研究所)がやり、芹沢高志さんがされているP3 art and environmentがアート系の企画を、事業比率で言うと8対2くらい、やってくださっていて、施設管理は神戸市の外郭団体の商工貿易センターという所が担い、3社のJV(joint venture 共同企業体)で9年やってきました。
藤 もうそんなに経ちますか。
永田 3期目が5年なので、計14年は関わることになります。ブランディングで言うと、「+(プラス)クリエイティブ」を提唱していて、まさに社会課題解決型のデザインセンターを目指すというのは、当初から打ち出していました。ただ、こちらもたぶん同じだと思いますが、分かりにくいんですよ。「美術館」と言われたほうが分かりやすい。
藤 美術館は、絵が見れますよ、技術が見れますよ。ホールは音楽を聴けますよ、というのが分かりやすいです。みんなイメージを持っている。でも、クリエイティブセンター? となると、イメージしづらい。
永田 私たち関係ないよね、ってなるじゃないですか。先ほど、藤さんが、活動をつくる場所だっておっしゃって、それは今、社会的にはとても大切ですけど、それを伝える難しさはありますね。最初の頃、議員さんにも言われました、市の方にも。つまり何をやっているか分からないということを。1時間話すと、面白いね、と言っていただけるのですが、そんな機会、あまりないですよね。市民の方に伝えるのも難しいと常に思いながらやってきました。活動を重ねていくしかない、年数がかかりますけれど、それに少しでも抗って伝えていくのが、実はブランディングなんですよね。
実践の場をつくるというのは、社会課題解決のプロジェクトをつくること、若い人たちや学生、社会人、高齢者などの担い手をつくること、いろんなステークホルダーが交流することで化学反応を生み出すこと、そしてそのことをちゃんと発信していくこと。4つ目の発信がまだ弱いかなという気はしますけど、この4つを活動方針の柱に掲げています。
最初の所信表明のキャッチコピーやステイトメントの言葉はコピーライターの岡本欣也さんが書いてくださいました。ロゴマークはアートディレクターの寄藤文平さんなのですが、寄藤さんはKIITOのロゴデザインの公募で選ばれました。すごい話ですけど。
藤 本当ですか。
永田 プロポーザルでもなくて、一般公募です。ご存知のとおり、寄藤さんはトップデザイナーで、普段は率先して一般公募にエントリーはされません。だから普通は出さないのですが、出してくださった。実は頼み込みました。僕、審査員ではなかったんです。だから案を選べない立場だったんですが、だけどやっぱりこれからやっていく上で、自分たちが掲げる旗印を誰がつくってくれるのかは重要で、思い切って頼みました。ここにブランディングの意味があります。寄藤さんの案よりも素晴らしいものが選ばれたらあきらめようと思ったんですよ。寄藤さんには失礼な話ですよね。
藤 まったく失礼ですね……
永田 寄藤さんが一言、僕、ロゴ得意だよ、と言って出してくださった。それで選ばれました。名前を伏せた状態で。300案以上の応募があったと後で聞きましたが。grafの服部滋樹さんたちが選ばれたと記憶しています。
藤 審査員よかったね。
永田 ロゴが分解できるんです。寄藤さんが書いた文章によると、「このロゴマークは、その場所を提供する側の願望をシンボライズしたものではなく、ここが制作活動を支援する場所であるという態度を表すものであるべきだと考えた。」
藤 いい言葉ですね。
永田 「積み木のようにどのようにも組み合わせが可能で、誰かの創意が加わることで意味付けされていく、そういった根源的なエレメントによって作られたロゴマークを私は考えた。」こういう考え方をしたのは、もちろん他にいない。このロゴマークが選ばれたことで、外向けにももちろん意味がありますが、スタッフたちにとっても旗印に、心の礎になった。エクスターナル・ブランディングとインターナル・ブランディングがあって、僕のセンターで言えば、市民にどう見えるかという話と、ここで働く人にとってそれがどうなのか。岡本さんがつくってくれた、「みんながクリエイティブになる、そんな時代の中心になる」という言葉も、岡本さんとたくさん話をして、僕らはこういうふうにしようと思っている、こんなことをしたい、って活動のことを全部話して、それをコンパクトにまとめてくださった。これをオープニングから掲げられる豊かさは、僕らにとってとても大切で、重要な作業だったなと思います。
KIITOが恵まれていたなと思うのは、ブランディングを担当してくださったのがこの2人だったから、というのはあるんです。寄藤さんと岡本さんとつくった、みんなとつくったブランドに価値があった、そんな気がします。
藤 寄藤さんと永田さんとの関係が、ここに至るまで長くあったのをよく知っています。ずっと一緒にやっているのはすごいことだなと思います。
永田 こちらは発注する人じゃないんです。このデザインをきれいにしてくださいとか、レイアウトしてくださいという仕事は頼んでなくて、根本から一緒につくる。
藤 ロゴをつくるには、デザインの考え方が必要であること、ステートメントは、コピーライターを入れてプロがつくるのが大事だということを、多くの人は実感していない。なんで頼むの、自分たちで作ればいい、って思っている節がある。
永田 あります。
藤 そこは、専門の人と一緒につくろうよって言うけど、その予算を、まず見ていない。
永田 本当におっしゃるとおりで、明らかに差が出るというか、ものすごい価値があることなのですが、その価値を伝えるのは難しいですね。
プラス何?
藤 実を言うと、NPO法人プラス・アーツというのがありまして、僕らはその理事長と副理事長なんですよね。つくったのはKIITOができる5年ぐらい前、もう少し前か。
永田 2007年だから6年前ですね。
藤 僕は違和感をぶつぶつ言うけれども、課題解決できないタイプです。
永田 そんなことないです。
藤 2000年に出会い、神戸の震災10年事業を一緒にやることになって、アーティストとの関係性を模索している中で、NPO法人をつくったときに、最初は「プラスアーツ」だった。都市政策だとか、環境、防災、福祉、そういう話を僕は当時熱く語っていたと思います。
永田 そうです。
藤 アーティストは面白い人が多い。問題を見つけ出す、ただ解決は苦手なので、都市政策をその町で実現していくときに、料理が必要です。そこでデザインという概念が、大事だと思うんですよ。デザインという概念が、まだちゃんとインストールされていない。僕だって、何かをつくり出そうとするエネルギーと情熱はあるけれども、形にしていくことは簡単ではない。
永田 でも十和田市現代美術館の「部活動」はすごいです。
藤 アイデアと勢いですね。
永田 あれはすごいと思います。
藤 あるとき、「プラスアーツ」じゃないなって。「プラスデザイン」だなって。そこをKIITOは、「プラスクリエイティブ」と言い出して。
永田 僕の中で「プラスアーツ」と「プラスクリエイティブ」はほぼ同義です。準備室の時は「プラスデザイン」と言っていました。でも立ち上げるときに、一般的に流通している「デザイン」という固定概念が、少し邪魔をする感じがした。
藤 それは「アート」もそうです。「アート」が持っている「アート」の概念が邪魔をすることがある。僕自身が考えている新しい物事をつくり出す「アーツ」、「アート」でもいいですが、それと一般的な意味での「アート」は全然違う認識でいます。
永田 僕はKIITOを立ち上げたときに、「デザイン」ではなく「クリエイティブ」と言ったほうがしっくりきた。伝えたかったのは、色や形も大事だけれども、デザインシンキングのほう。それを説明するときに、毎回、色や形のデザインではなくて、っていう前置きの説明が必要だった。それが面倒で。
藤 ある建物ができたら、まずネーミングを考えなければなりませんね。秋田市文化創造館でいいの? って今も思っています。ここは、千秋公園の入り口にあるので、文化創造館と呼ばなくても、ロビーですよとか、リビングですよとか、これが公園の入り口の休憩所ですよとか言っていい。休憩所にちょっと大きいホールが付いてるんです、いろんな話ができるんです、カフェもあって、お店もあって、いろんな活動が、広場の一部なんですよって。
永田 KIITOを、今、デザイン・クリエイティブセンター神戸と呼ぶ人はほぼいなくて、圧倒的にKIITOなんです。言いやすいですよね。デザイン・クリエイティブセンター神戸というのを知らない人もいるかもしれないです。それくらい、KIITOという名前が流通しています。もしかしたら、秋田市文化創造館も、なにか一つ、みんなが呼びやすい愛称があってもいいですね。
藤 そのために、僕がイメージしたのは、最初はフォントも、ニュートラルなもの。名称を公募するでもなく、ブランディングを公募するでもなく、ブランディングといっても、いわば「信頼」みたいなものだから、活動をつくる中で自然となっていくのが本当は理想かなと思いながら、やはり先ほどの考え方ですよね。「プラスクリエイティブ」の発想です。デザインについての意識。それをたぶん、秋田市、もしくは秋田の町に暮らす人たち、企業、団体、組織、法人、全てが問題にして、時代がデザインであるということを、環境をつくることがデザインであることを、考えなければいけないんです。そういうプロジェクトを、今後、やりたいと思っています。
永田 その意味で言うと、「みんながクリエイティブになる、そんな時代の中心になる」は2012年に掲げましたが、僕は今、講演するとき、KIITOは何ですかって聞かれたら、あらゆる世代を対象とした創造教育の拠点だって答えます。子どもから、じいちゃんまで。それがKIITOの価値、役割で、町を豊かにするんだという思いにつながっています。
「BE KOBE 神戸は、人の中にある。」というのも、寄藤さんと岡本さんのコンビですけど、ちゃんとつくる、強度があるとこうなるんだっていう証みたいなものです。
藤 BE KOBEね。
-KIITOの永田さんとのお話- 【後半】へ つづく
「かえるくんのどうする!?ラジオ」第1回 -KIITOの永田さんとのお話-
収録日 | 2021年3月22日(月) |
会場 | 秋田市文化創造館 1F コミュニティスペース |
登壇者 | ゲスト|永田 宏和(デザイン・クリエイティブセンター神戸 副センター長) パーソナリティ|藤 浩志(秋田市文化創造館 館長) |
Profile
永田 宏和 -Hirokazu Nagata-
デザイン・クリエイティブセンター神戸 副センター長(※2021年4月よりセンター長)
1968年兵庫県生まれ。企画・プロデューサー。1993年大阪大学大学院修了後、大手建設会社勤務を経て、2001年「iop都市文化創造研究所」を設立。2006年「NPO法人プラス・アーツ」設立。2012年8月よりデザイン・クリエイティブセンター神戸(KIITO)の副センター長、2021年4月よりセンター長を務める。主な企画・プロデュースの仕事に、「水都大阪2009・水辺の文化座」、「イザ!カエルキャラバン!」(2005~)、「地震EXPO」(2006)、「ちびっこうべ」(2012~)、「EARTH MANUAL PROJECT展」(2013~)などがある。
https://kiito.jp/
Profile
藤 浩志 -Hiroshi Fuji-
秋田市文化創造館 館長
1960年鹿児島生まれ。京都市立芸術大学在学中演劇に没頭した後、公共空間での表現を模索。同大学院修了後パプアニューギニア国立芸術学校に勤務し原初表現と人類学に出会う。バブル崩壊期の土地再開発業者・都市計画事務所勤務を経て土地と都市を学ぶ。「地域資源・適性技術・協力関係」を活用し地域社会に介入するプロジェクト型の美術表現を実践。取り壊される家の柱で作られた「101匹のヤセ犬」、給料一ヶ月分のお米から始まる「お米のカエル物語」、家庭廃材を蓄積する「Vinyl Plastics Connection」、不要のおもちゃを活用した「Kaekko」「イザ!カエルキャラバン!」「Jurassic Plastic」、架空のキーパーソンを作る「藤島八十郎」、部室を作る「部室ビルダー」等。十和田市現代美術館館長を経て秋田公立美術大学教授、NPO法人プラスアーツ副理事長、NPO法人アーツセンターあきた 理事長、秋田市文化創造館 館長
https://www.fujistudio.co