秋田の人々
このまちで暮らしを重ねる
たくさんの人たち。
人を知り、出会うことができたら、
日々はもっとあざやかに、おもしろくなる。
秋田に住まうあの人この人、
秋田に関わる人々を不定期で紹介します。
中心市街地や秋田市文化創造館での
過ごし方・使い方のヒントを
見つけてください。
箕づくり職人
秋田県秋田市太平黒沢
田口召平さん
秋田市と上小阿仁村にまたがる、主峰1,170mの「太平山」。秋田市のシンボルのひとつであるこの山のふもと「黒沢地区」は、かつて「黒沢郷」と呼ばれ、「箕(み)づくりの郷」として知られるほど箕の一大産地だったと伝わります。
秋田市文化創造館からは車で約25分。稲穂が実る秋、この地で暮らし、60年以上「太平箕」をつくり続けてきた職人・田口召平さんを訪ねました。
「私が箕づくりに携わり始めた昭和30(1955)年頃、この地域には箕づくり農家が住んでいる集落がいっぱいあって、すごくにぎやかだったんだよ。私は稲荷、ほかに野崎、砂子沢、館越という集落が4つ固まって“黒沢郷”を成していたんだ。そこが太平箕の産地だった。毎日のように箕ができるし、それを買ってくれる人がいる。爺さんがいて、親父がいて、息子がいる、そういう家が何軒もあったからな」。
「箕」とは、かつて農作業の必需品だった道具のひとつ。脱穀した穀物の受け皿として、また、穀物をすくったり、ふるいながら籾と藁くずを選別するのにも、運搬にも使われていました。
緯糸(よこいと)にイタヤカエデ(時にヤマウルシ)、経糸(たていと)にフジズル、縁に根曲がり竹を使用するのが「太平箕」の特徴。これらの材が豊富に採れるのが太平山でした。
現在、この「太平箕」を専業でつくる職人は、田口さんただひとりです。
「昔は周りに箕づくりする爺さん方いっぱいて、人の背中ばかり追ってきた人なんだ私。若いもんだから技術を磨くことに夢中になって、気がついたときには私の周囲では誰もおらないの。かつて仲間であった人もみんな社会の波さのっていった。おや俺ひとりになってしまったなと気がついたんだ。それから50年近くになります」。
道具ではなく、飾りもの
箕づくり農家に生まれた田口さんが、はじめて箕をつくったのは、中学校を卒業した翌年のことだと言います。当初は高校への進学を考えていましたが、母が亡くなりその道を断念していました。
「親父が大変だなと、高校さ行くなんてわがままできないなと。だども、朝飯食ってから2階さ上がるのよ。そうすれば下が道路だったから高校さ通う人見えるんだよな。やー俺も学校行きてえなって。なんとかならねえかなと思って、1年くらい箕の仕事しなかったんだ。毎日本読んだりして。親父も一切、つくれと言わないの」。
ところが当時は、専業の箕づくり農家のみならず、豆腐屋や床屋までもが箕をつくり、祖父の世代までを含めると何十人もの職人がいた時代、田口さんと同世代のつくり手も7〜8人おり、「仲間がつくっているなら俺もつくるか」と少しずつ手を動かし始めます。
「そこで気がついたのはよ、学校さ行けばお金使うけども、俺は家で箕をつくれば稼ぐことができる。そうすれば差つくなって。それからゆっくりやる気になったの」。
仲間で集まり、見様見真似で技術の向上に努めながら、田口さんは父の勧めもあり、自ら行商にも出かけるようになります。
この頃、黒沢郷では「つくり手」と「売り手」、「仲買人」は分業が主でしたが、売り手だけが儲かり、つくり手の生活が向上しないという実情もあったためです。
「主に北海道を歩きました。商売の道さ入ってなんとするかと言うと、どうすれば売れるか、今度自分なりに考えるんだよな。いろんな人の話も聞いて、よし、俺の箕を絶対的な良い箕に仕立て上げようって」。
そこから田口さんが取り組み始めたのは、「美しい箕づくり」。装飾の樺を多く使うなど工夫や手間を加え、2009(平成21)年には「秋田のイタヤ箕製作技術」として、仙北市角館町雲然でつくられる「雲然(くもしかり)箕」とともに、国指定の重要無形民俗文化財に指定されます。
「私の箕は、道具ではなく、飾りものなんです」と言う田口さん。
特に文化財に指定を受けてからは「これは使ってもらいたくない、飾ってもらいたい箕です」と売るようになっていきました。
箕は農具であることが当たり前だと思っていた顧客の心理を逆手に取ったという戦略は、時代の変化を受け止めたものでもあったのでしょう。
わずか数年で農機具が進化し、農具としてはほとんど使われなくなっていった箕。
けれども田口さんがひと手間を加えた美しい箕は、この地で受け継がれてきました。
身体が覚えていること
「もうそろそろ(箕づくりを)やめようかって、幕半分閉めかけています。ほんとほんと。注文入ればもう少し応えるかってつくるけれどもね。山にも行っていないんだ」。
85歳を迎え、そう話す田口さん。黒沢地区では、材料の採取は職人が自ら行うのが習わし。今では制作数も減ったため、今年は一昨年に採りに行ったという材で仕事をしていますが、「秋切り」と呼び、かつては雪に閉ざされる冬季間に箕づくりができるよう、農作業が終わる秋に毎年伐採に出かけていました。
この日は山には入りませんでしたが、イタヤカエデの採取場所を案内してくれました。
行商に行く先々でも山を見て歩き、「意識して見て歩くというより、習慣づけられているんだな」と、父とともに山々を歩いた経験から必要な木がある場所は体でわかると言います。
「ホオや桜の木があったら、近くに柔らかで良質なイタヤカエデがあるなとわかります。木は周囲の植生に馴染むから、ナラのような硬い木のそばに生えると硬くなってしまうんだよ」。
採取する木に出会うと、田口さんはまず木肌を必ず撫で、木質を手で感じとります。
「質が良い木は、触るとしっとりとしているんだ。馴染みがいいというかな。肌が第一印象、ねじれがないか、節がないかを見て、良いと思ったものを(森から)いただいて行きます」
この日案内してくれた山は、作業場から車で30分ほどの場所でした。
豊富だった太平山の材は、ある時に枯渇してしまったのだと言います。
かつては、伐採をしても再生していた山の木々。それは、山に「炭焼き」が暮らし、燃料や資材としての木を採る人や、山菜を採る人が出入りしていたからなのだと田口さんは話します。それも程よい量で。
「人が入れば、山に光が入るから切り倒した側から生えた芽が育つんだ。人が入らなければ山は荒れてしまう。そういうところが太平山に限らず、いっぱいあるんだよ」。
「太平箕の原型」を残す意義
美しい箕を追求し、技術を磨いてきた田口さんですが、依頼があったものを除き、これまで太平箕以外をつくろうとはしてきませんでした。
田口さんは、その選択をあえてしなかったと言います。
箕の技術がともに国指定の重要無形民俗文化財に指定されている角館では、「イタヤ細工」として秋田県の伝統的工芸品に指定されているように、イタヤカエデを使用した縁起物やカゴなど、農具ではない日用品が時代に合わせてつくられてきました。
「友達も、なんで箕ばかりにこだわるんだ、おめえ時代遅れだって言うのよ。でも俺やらねえんだ。わざと。
なんでかって言うとよ、俺は縄文の世界にさ入っているんだもの。時代に合わせた新しいものをつくると言うけれども、縄文時代まで遡れば、昔の人がみんなやったことを復習しているんだという論理なの。
だからあくまでも太平箕にこだわる。俺のこだわると言うのはそういうこと。一歩も抜け出さない。太平箕の原型を絶対残す。そういう思いでつくっているんだ」。
田口さんは、縄文の世界に夢中。
縄文時代の地層から多くの箕が発見されていますが、形状は現代のものとほとんど変わっていないと言います。
「金属の刃物がないと思われる時代に、よくぞこんなものをつくったなと。そう思うだけで尊敬に値するよな。想像すると、思いが募っていくんだよ。縄文人と簡単に呼ぶけれども、優れた人たちで、かなり高度な生活をしていたと思うんだな。この人たちには怠けごと言えないんだ。そういうこと考えてみれば、歳いっても無限に夢広がるからよ。歳なんか考えていられねんだ。あははは」。
取材にうかがった10日前には、田口さんは鹿児島を訪れていました。
耕地整理で縄文時代に使っていたと思われるカゴが見つかり、イチイガシという材でつくっていたと推察されましたが、現在のイチイガシと同じ種類なのか、実際割いて編めるものなのか実験してもらいたいと声がかかったためです。
秋田には無いイチイガシ。田口さんも触れるのは初めてでしたが、実演してみると割くことができ、同一種であることが断定されました。
その際、鹿児島の森も案内してもらった田口さん。秋田とは異なる植生を見て、さらに縄文人へ想いを馳せます。
「(鹿児島の)森を見れば、いろんな材料があるんだよ。自然を熟知していた縄文人なら、これらの材料を放っておくわけはないよなって。いろんなものをつくったと思うんだよ。私の感覚です。まだ見つかっていない素材で作られたものも、俺いっぱいあると思っているんだ。まだまだ夢はほんとふくらみます」。
自らの足で森を歩き、材を採り、手を使い編み上げる。身体で自然と向き合ってきたからこそわかる気づき。常に新しい発見がある世界だと楽しそうに話します。
これまで全国の箕の調査と収集も行ってきた田口さんは、素材や形の若干違う、現代のさまざまな箕にも出会ってきましたが、それでもやはり他の箕をつくってみようとは思いませんでした。
「やっぱりよ、自分のところの箕(太平箕)を最高の作品として誇りを持たなくてはダメだという腹があるからな」。
この揺るぎない意思もまた、道具として使われなくなってもなお、太平箕が息づいている一因になっていると感じます。
太平箕の未来
太平箕は、百数本の断ち割りをした「つくり木」をつくると、編む工程に移ります。
まずは「ハネギ」と呼ばれる道具に弓状に藤蔓を張り、左右に「コハネギ」を並べ、湿らせた緯糸になるイタヤカエデを藤蔓と上下交互になるように並べていきます。細い順に並べていくことも美しくするポイント。これだけで2時間近くかかると言います。
並べおえると、今度は向きを変え、出来上がりは経糸になる藤蔓を、イタヤカエデと上下交互になるように編んでいきます。最後にさらに細く割いたイタヤカエデで、立体に縫い合わせます。
「材を採りに行くのは苦しいんだ。やっぱりよ。あるなんて保障はひとつもないからな。つくる作業はさ、パタパタパタパタって、リズミカルだし、音楽でも聴いているような気持ちだ。心地もいいな」。
原木を採取する道具、原木から「つくり木」をつくるまでの道具、そして編む道具と、工程によってさまざまな道具が使い分けられている太平箕づくり。それらの道具は他の地域よりも優れていると田口さんは話します。黒沢地区にあった〈沢田鍛冶屋〉に、こんな道具はどうかと投げかけて試行錯誤して生まれものが多くあるそう。
〈沢田鍛冶屋〉はなくなってしまいましたが、現在は五城目町の〈布川刃物製作所〉に現物を見せ、同様の形に打ってもらうことで道具が引き継がれています。
「太平箕も、本当は、引き継いでもらえる人がいたらいいんだ。んだども、必要があれば継続するし、どこかで生まれるんだ。企業でもなんでも。必要なくなれば自然に淘汰されるのは当たり前のことだと思ってるからよ、あえて特別どうのこうのということは考えないんだ。
やりたいという人がいたら教えるけどもよ、ただ箕つくって一人前だと思ったらならねって俺いうんだよな。人はやっぱりよ、ものの考え方、生き様ってのはあるんだよ。ものをつくる人は、ひとつの人格を持ち合わせなければよ、世の中に一人前と認めねえよな」。
田口家では4代に渡りつくり続けられてきた太平箕。歴史を知り、時代を感じ、飾る箕として受け入れられるために田口さんが加えた手間隙。技術も経験も想いもあるからこそのかたちです。
ただひとり、生まれ育った場所で、太平箕を守り続け、ほんの数十年前の、失われてしまった景色や感覚を教えてくれる田口さん。先人の背中を追い続けてきたと言う功労者の背中は、力強く、太平山にも、森の木々たちにも見守られているような安心感もありました。
information
田口召平 SHOHEI TAGUCHI
箕づくり職人
※箕コレクションの一部は秋田県立博物館に収蔵。
(秋田県立博物館)
住所 | 秋田県秋田市金足鳰崎後山52 |
電話 | 018-873-4121 |
Web | https://www.akihaku.jp/ |
──秋田市文化創造館に期待することは?
箕づくりの実演してくださいと依頼があれば行きますよ。これまでも学校で実演したり、生徒さんに体験してもらったことあるんだ。植物の繊維は縦に割れやすいと、補強のために経糸と緯糸で織ることを昔の人は考えた。みんなが着ている服も、経糸と緯糸を合わせて丈夫にできているんだよという話をすれば、小学生もわかるんだな。うまいこと言うなって聞いてくれるの。将来、1分1秒でも経験として思い出してもらえる機会があればいいけどもな。
──友人に案内したい秋田市のおすすめの場所を教えてください
ふるさと温泉ユアシス(秋田市雄和・MAP)
あまり外には出かけないけども、温泉にはしょっちゅう行きますよ。ユアシスがお気に入りです。
鵜養(うやしない)地域の景勝地
岩見川の最上流に位置する鵜養地域の景色は美しくていいな。伏伸(ふのし)の滝(秋田市河辺・MAP)はきれいですよ。
嵯峨家住宅(秋田市太平・MAP)
太平にある江戸期の豪農の家です。あそこは一度見るべきだな。
※現在も住宅として使用。見学は要予約。
(取材:佐藤春菜 撮影:鄭伽倻)