秋田の人々
このまちで暮らしを重ねる
たくさんの人たち。
人を知り、出会うことができたら、
日々はもっとあざやかに、おもしろくなる。
秋田に住まうあの人この人、
秋田に関わる人々を不定期で紹介します。
中心市街地や秋田市文化創造館での
過ごし方・使い方のヒントを
見つけてください。
ガラス作家
秋田県秋田市
熊谷峻さん 境田亜希さん
秋田市を拠点に、ガラスによるものづくりを行っている熊谷峻さんと境田亜希さん。夫婦でもあるふたりは、秋田市文化創造館からもそう遠くはない場所に、自宅兼工房を構えています(工房は現在非公開)。
ガラス工芸が盛んな富山での活動を経て、2017年から故郷である秋田で制作を開始。
それぞれが作家として作品を発表しています。
峻さんが制作に取り入れるのは鋳造技法。自身でつくる石膏の型に詰めたガラスを、高温の窯で溶かし、冷やし固めて成形します。
石膏型はガラスを取り出す際に壊さなければならないため、作品はすべて一点ものです。
亜希さんが主に制作するのは吹きガラスの技法。高温溶解したガラスを金属製の細長い吹き竿で巻き取り、竿に息を吹き込んで成形します。型がないので、亜希さんの作品も一点ものです。
使うガラスにも特徴があります。
亜希さんは、透明に近いガラスを竿で巻き取り、粉をふりかけて色をつけます。ふりかけ具合によって色の濃厚さが変わるおもしろさがあるのだそう。
峻さんが使用するのは、もともと色がついているガラス。購入したものに加え、他のガラス作家や、亜希さんから譲り受けた“捨てる部分のガラス”を混ぜ合わせて色や模様を生み出します。
「他のガラス作家」とは、主に〈秋田市新屋ガラス工房(MAP)〉をレンタルしている作家の方々。新屋ガラス工房は、ガラス制作のための設備をレンタルできる東北では珍しい施設で、県外から訪れる利用者も多くいるのだそう。
新屋にガラス工房がオープンしたのは2017年7月。その立ち上げを手伝ってほしいと峻さんに声がかり、ふたりは富山から秋田に帰郷します。峻さんはここで3年間所属作家として勤務しました。
「新屋で捨てられているガラスを見て、全部一緒くたにしたらおもしろいのではないかと思ったんです。
やっちゃえと思えてつくってみたら実際おもしろくて」と話す峻さん。
秋田に帰ってくるまでは、「やっちゃえ」という気持ちだけでは作品づくりはできなかったといいます。
「以前はコンセプトをガチガチに固めて、テキストも凝って書いて、作品をつくっていました。コンペで賞を獲れないとダメだと思っていたんですね」。
「誰にも文句を言わせない、隙も与えないみたいな気持ちでつくっていたよね。技術重視だったと思います」と亜希さん。
「秋田に帰って来てから、その気持ちがなくなって、おもしろそうだなとか、ちょっとやってみようかなという気持ちでつくれるようになりました」。
ガラスに携わる人は、不純物をとり除き、透明なガラスをつくりたいと思う人が多いのだといいます。峻さんは、不純物をどんどん足したいという思いで創作します。
「欠陥のように見えたり、ムラのように見えるのがおもしろいんです。ガラスは性質が合わないと割れてしまうので、リスクも高いのですが、僕は金継ぎもするので、割れたら継いで売ります。だから挑戦もできる」。
発想の源にあるのは、陶芸や金属など、
ガラス以外の素材の技法。
陶芸の釉薬が垂れてできる模様をガラスで表現できたらおもしろいのではと考えています。
こうした方法でガラス作品をつくる人は稀有。「今は家庭料理をつくるみたいにつくっています」と軽やかな気持ちで生み出す唯一無二の作品には、海外からの反応も増えたといいます。
社会人を経てガラスの道へ
ふたりがガラスと出会ったのは、秋田公立美術工芸短期大学(現・秋田公立美術大学、以下美短)。ともに社会人を経てからものづくりの道に進んだその境遇は、なんだか似ているところがあります。
峻さんは由利本荘市出身。高校卒業後は地元の役場に勤めましたが、3年が経つころに退職を決めます。
「高校を卒業するとき、やりたいことがなかったんです。ひとまず、という気持ちで公務員にはなりましたが、やりたいことではなかったので、だんだん苦しくなってきて、やり直そう、やり直したい、このまま死ぬなんて嫌だ!という気持ちが強くなりました」。
退職後に道を探して美短を受験し、ガラスと出会ってからは、「もっとつくりたい」と、短大ののち専攻科、研究生と4年の学生生活を経て、短大の教務補助を3年勤めます。
「他の子たちと年齢の差もありましたし、役場を辞めて来たので、地元にも帰れない、友達とも会いたくない、がんばらなきゃという思いで必死でしたね」。
一方、亜希さんは、秋田市内の高校を卒業後、京都の大学へ進学。大阪で就職しますが、3年が経ったころ、気持ちに変化が訪れます。
「こんな普通な生き方するんだったっけ……。いや、ちょっと待って、全然おもしろくないぞ、どうせ死ぬのだったら違う何かをちゃんとやりたい。人生をやり直すなら今だと思いました」。
「何をやり残したか」を考えたとき、ものづくりをやりたかったけれど、あきらめて何も挑戦しなかったことをずっと気にかけている自分に気がつきます。
「高校生のときに憧れて、デッサン教室に通ったのですが、すごく下手って、今からやるのは大変だよと言われて辞めたんですよ。でもやっぱり、どこかでやり直さなきゃいけなくなって、それは今だなと思ったんです。このまま逃げ続けるのはもうやめて、もう一度向き合ってみようと」。
ふたりが進んだ工芸美術学科には、陶芸や漆工芸、染色などさまざまなコースがありましたが、ふたりとも「ガラスならなんとかなると思えた」と話します。
「すごく不器用なんですが、ガラスはスポーツみたいで、バスケをずっとやっていたので運動神経には自信があって、これだったらできるかもと思えたんです」。(亜希さん)
亜希さんが入学したとき、教務補助として勤務していた峻さんは、「すごく真面目だし、とんがっていました」と当時をふりかえります。
「もう必死でした。これで終わったら後がないって」と亜希さんも話します。
同じような心の移り変わりを経て、ガラスと出会ったふたり。峻さんは教務補助の任期を終えるとき、ガラス工芸が盛んな富山へ行くことを決めます。
富山市は、「越中富山の薬売り」に由来する、薬瓶の製造が盛んに行われていた歴史から、古くから多くのガラス職人が存在した土地。ガラス研究所、ガラス工房、ガラス美術館を整備するなど、「ガラスの街とやま」として30年以上取り組みを行ってきました。
「生まれてからずっと秋田にしかいなかったので、県外に出てみたいという思いもありましたし、プロフェッショナルが集まる富山に一度行ってみたいと思って、〈富山ガラス工房〉の試験を受けました」。(峻さん)
とき同じくして、亜希さんも短大を卒業。一緒に富山へ移り、作家のアシスタントなどを経て、2年後工房に入ります。
〈富山ガラス工房〉では、トロフィーや記念品など、受注生産が主。量産もすることで技術は向上しますが、制作に追われ、作家としてのものづくりはほとんどできなかったといいます。
仕事の傍らで創作も行いますが、ガラス作家が多く、競争の激しい富山では、作品と向き合うのではなく、人と向き合う必要もありました。
「大変だったね……」と当時を思い出すふたりですが、
「富山での経験がなければ、今ガラス作家としては絶対活動できていない」とも断言します。
「タフになったし、人に恵まれました。富山で出会った作家さんや知り合った人たちからヒントをたくさんもらって、活動が広がったと思います」。
ただ、作品と向き合える
2017年に帰郷後、亜希さんは4月に出産し、新屋ガラス工房がオープンした7月から作家活動をスタート。2020年には峻さんも新屋ガラス工房を退職し、作家として独立しました。
「ただつくることができるので、今が一番楽しいです。気持ちが緩かになったのは、雑念が少ない秋田の環境もあるし、子どもができたというのも大きいですね」と峻さん。
秋田を拠点にしてから、ガラスとの向き合い方が変化したのは、亜希さんも同じ。
「今までは、ガラスを続けていくためにガラスをしなくてはいけなくて、”続けていくためのガラス部分”がしんどかったんです。
でも今は、自分が好きなものをつくるために、自分が好きなガラスをつくれる。
それがちょうどお互い同じ時期にやってきて、求めてくれる人もお店もあって、すごく恵まれていて楽しいです。幸せですね」。
富山で原形が生まれた「はなかげ」も、形の捉え方や目の置き場所に変化が表れました。
「富山ではお腹に子どもが入った状態でずっと仕事をしていたので、出産後(秋田で)ひさしぶりに吹いたら、軽くて、軽くて、すごく楽しくて。風を感じるみたいに、体の使い方の感覚が全然違いました。そこから自分のガラスもちょっと変わっていったような気がします」。
作家として、ファンとして、パートナーとして
できる工程やつくれる数にも限りはあるため、今も新屋ガラス工房をたびたびレンタルしていますが、「自分たちの工房」があることも、安心感があると話します。
日ごろは、工房のそれぞれの作業場で制作をしながら、お互いの作品へ意見を言い合うのだそう。
「峻くんからは、これいいねって(言ってもらえます)。私は峻くんに、見飽きたって(言います)。もうちょっと違う捉え方で、新しいものをつくってほしいという思いもあるので、プレッシャーをかけるんです。でも一番のファンです」と亜希さん。
作品と真剣に向き合うお互いを、作家として、ファンとして、家族として、よき理解者として尊敬し合う様子は、インタビューの間、随所に感じられました。
富山で「はなかげ」が生まれるまで、亜希さんは「壊れやすいもの」をたくさんつくっていたといいます。
「倒れそうとか、割れそうとか、転びそうとか、
そうした不安定さにずっと惹かれていました」(亜希さん)
「緊張感がある形をつくろうと思ったら、底面が狭くて上面が広い、本当に緊張状態のものをつくっていたよね。でもずっと向き合っていることで形の捉え方や技術が蓄積されて、今は、安定していても、緊張感がある形とかラインがつくれるようになってきた」。(峻さん)
ずっと亜希さんを見てきた峻さんの言葉に、「そう。ほんとに、そういう感じです。いいこと言うなと思って聞いていました」と信頼を寄せます。
今後は、工房に併設するギャラリースペースをつくり、秋田でも展示を行いたいと考えているふたり。一般の方が手に取り購入できる場所が、そう遠くはない未来に誕生しそうです。
「もっと筋肉をつけて、美しくて大きいものもつくれるようになりたいし、いつかお店をやってみたいとも思っているんです」と話す亜希さん。
「ガラス制作とお店、どこで折り合いをつければいいのかずっと考えています。それが次の目標です」。
手入れされた庭が見える大きな窓に囲まれ、光が入る工房は、季節の変化を感じられ、1日の中でもガラスの表情が刻々と変化していきます。
好きなもの、美しいと思うものを、楽しくつくるため、そのひとつひとつと大切に、真剣に向き合うために、無理はしない。
ふたりでつくりあげる空間は、熱を帯びながらも、心地よい風が流れていました。
──旧県立美術館の思い出は?
千秋公園はツツジを観に行ったり、神社にお参りに行ったり、子どものころからよく行っている場所です。
平野政吉美術館(旧県立美術館)で見る『秋田の行事』が大好きでした。(亜希さん)
──秋田市文化創造館に期待することは?
中央図書館(明徳館)によく行くので、ふらりと立ち寄って、ゆったりと彫刻作品を見られるような場所だといいなと思います。(峻さん)
図書館と、新しくできるあきた芸術劇場と、千秋公園まで、全部つながる通路ができたら楽しくなりますね。(亜希さん)
──友人に案内したい秋田市のおすすめの場所を教えてください
館の丸食堂(秋田市新屋・MAP)
ふたりとも学生のころからよく行っていました。今も新屋ガラス工房に行くときは、だいたい昼はここで食べています。ホルモン中華が大好きで……
50年以上の歴史がある食堂なのですが、最近建て替え工事をして新しくなりました。
昔からの建物がなくなってしまうので、改修前の最終日にも食べに行きました。ホルモン中華とミニチャーシュー丼はもう売り切れで……その日はカツ丼を食べました。
notoya(秋田市旭北栄町・MAP)
(亜希さんが)子どものころから通っていて、ここのとうふソフトがおすすめです。
豆腐が練りこまれたソフトクリームに、粒あんやきなこ、しらたまがのっていています。
甘さも価格も優しいので冷たいものを食べたいときはここでとうふソフトということに決まっています。
(取材:佐藤春菜 撮影:鄭伽倻)