秋田市文化創造館

PARK – いきるとつくるのにわ

トークイベント「食べること、社会の中で生きること」開催レポート

日時|2022年10月22日(土)14:00〜16:00

秋田に暮らす人々やクリエイター、専門家が交わり多様な活動を展開するプロジェクト「PARK – いきるとつくるのにわ」。「観察する」「出会う」「育む」「残す」の4つのプログラムを通して、秋田の文化的土壌をたがやしていくことを試みます。

「出会う(新しい知識や技術と出会うトーク&ワークショップ)」の第4回として、トークイベント「食べること、社会の中で生きること」を開催。ゲストに人類学者の磯野真穂さん、聞き手としてキュレーター・心理療法士として活動する西原珉さんにご登壇いただきました。

普段ふつうに食事を摂っていることや「おいしい」と思う感覚が、摂食障害の当事者の方の「食べる」とはどう違っているのか。「食べること」は栄養素の摂取だけじゃなく、人との繋がりや記憶との結びつきなどの「意味」も併せて摂取しているということ。参加者の方々にも自身の経験と重ねながら、考えていただく機会となりました。


磯野:今日は「食べること、社会の中で生きること」ということでお話をさせていただきます。

私は文化人類学の中で医療人類学というのが専門です。摂食障害、つまり拒食症や過食症の研究を15年ぐらいやっています。今日はそのことも入れつつお話したいと思っています。

いきなりなんですがこれから皆さんにワークシートを配ります。「この1カ月で食べたおいしいものはなんですか。なぜおいしかったですか」というのを考えて、隣の方と共有してみてください。

では聞いてみたいと思います。ペアになられた相手の方のおいしかったものと、なぜおいしかったのかを紹介してください。

参加者1:タイ料理のカオマンガイがおいしかったというお話でした。どういう料理か知らなかったそうで、大学のお友達が作ってくれたそうなんですけど。初めて食べて、すごくおいしかったということと、お友達と一緒に食べて楽しかったということでした。

参加者2:彼がこの1カ月で食べたおいしいものはグラタンで、理由が自分でレシピを考えて作ったからだそうです。

磯野:ちなみにどんなレシピだったんでしょうか。

参加者3:高校の調理実習で作ったんですけど、実習の数週間前にお酒の工場見学に行って、その時にもらった酒かすを使ったレシピでした。みんなで意見を出し合ってレシピを考えたし、調理する時もグループの仲間と協力して楽しく作ったので、すごくおいしいグラタンでした。

磯野:ありがとうございます。今、おいしいものの話を聞いて共通点があったと思います。必ずそこに食べ物の話ではなくて、人の話も一緒に出てきていましたよね。おいしいものの話をすると、たいてい人間の話が出てきます。

摂食障害の当事者の方はおいしいという感覚がしばしばなくなります。食べ物のことをずっと考えているのに、なぜかおいしいという話が全然出てこなくなるんです。それはどういうことなんだろうということを人類学的に考えてみます。

私は摂食障害については2冊本を書いています。『なぜふつうに食べられないのか』という2015年に出た本は、いまだに買ってくださる方が結構います。『なぜふつうに食べられないのか』はちょっと難しめの本なので、中学生、高校生でも読めることを目指して『ダイエット幻想』という本を2019年に出しました。この2冊を中心にお話をします。

『なぜふつうに食べられないのか』は主に6名の摂食障害の方が登場する本です。摂食障害は、食べ物のことばかり考えているのに食べられない、食べることが怖いという病気です。西原さんもアメリカにいる時にカウンセリングで、摂食障害の方にお会いになられたとおっしゃってましたよね。食べ物の話は出ましたか。

西原:大抵、私は食べ物のことを直接話すというよりは、家族関係とか学校のこととか、そういう話を聞くことが多かったです。

磯野:今、心理のアプローチと文化人類学のアプローチの違いを言ってくださいました。摂食障害といった場合、心理学的なアプローチでは、人間関係とか家族関係みたいな話に焦点が置かれます。なぜかというと、うまく食べられなくなっている背景には、家族関係や悩みやそういう問題があるからだろうというのが、一般的な心理学のアプローチだからです。けれども、私は人類学者なので違うアプローチを取りました。それは、拒食や過食の当事者の方にとって食べ物がどういう風に表れているのか、経験されているのかというアプローチです。

人類学は食べ物の意味を特に考えていく学問です。これは人類学のある教科書から引用したものですが、例えば雷が鳴ったとします。そうしたら雨が降るかなと思いますよね。これは恐らく世界のどこに行っても、大体そうでしょう。こういう理解を「信号」とか「予兆」という風に考えるとすると、人類学がより注目をするのは「シンボル」「象徴」と呼ばれる部分です。

例えば雷が鳴ったら、雷様が太鼓をたたいているとか、怒ったゼウスが雷を投げているとか、エルフが空の上で家具を動かしているんだ、みたいな考え方です。人類学というのはどちらかというと、この意味の多様性に着目していく学問です。
しばしば医学の文脈だと、この「象徴」に当たる部分が間違っているという理解になったりします。雷は気候の現象なんだから、雷様やゼウスやエルフがいるわけない、これは間違ってるんだっていうことです。しかし、人類学の場合はどうしてこういう風に意味付けするのかを考えます。

先ほど皆さんに、「おいしかったものは何ですか」と尋ねたとき、あれは皆さんにとっての食べ物の意味付けを聞いたんです。そうするとおいしいものには必ず意味や意味の連なりが出てきます。それを体験してもらいたくてやりました。

ここから、食べ物の意味がいろいろあるという事例を紹介します。これは昭和30年代の四国の農村で実際に見られた習慣です。お彼岸のときに各おうちが200個のおまんじゅうを作って、親類に10個ずつ配って歩く。そうするとお互いに配り合うために、作った数のおまんじゅうが返ってくるわけです。これは何をしているんだと思いますか?

参加者:自分で作ったものを食べるよりも、人からもらったっていう感情があるから、200個あっても食べれるんじゃないかな。

磯野:そうなんです。人からもらっているということがとても大事なんです。つまりこれは、人間関係の繋がりを維持したり確認したりしているんです。単純におまんじゅうがぐるぐる移動しているのではなく、交換し合った人たちとの関係性が維持されたり確認されたりしてるんです。

次は南半球メラネシアの例です。収穫したたくさんのヤムイモが円錐形に高く積まれています。これは大体、男性が積み上げるんですけど、なぜこのような保存の仕方をするんでしょうか。

参加者:いっぱい積んであるのがかっこいいから。

磯野:そうです。これ自慢なんですよ。男性にとっておイモがたくさん採れるというのは、自慢になる。男性としての威信を大きく示すことになります。

西原:今ちょっとひらめきまして。アートではそういうものをインスタレーションというんですけど、インスタレーションも「自慢」なのかもしれないです。作品をより良く見せるためであったり、その価値を知らしめるための手法としてのインスタレーション。人類学的に見ると面白いかもしれないと思いました。

磯野:次は記憶を結びついた食べ物の例です。食べ物が鍵になって、過去の思い出が引きずり出されたり、呼びされされることがあると思います。これもある種、意味付けの一つです。
西原さんはこれ食べると思い出しちゃうみたいな食べ物はありますか?

西原:シュークリームですかね。私が小学生の頃、母親がちょっと家出していた時期があって、時々、会いに来てくれていて。待ち合わせの喫茶店に私が行くと、シュークリームが出てくるんです。ランドセルを背負っていたんですけど、「こういう子が入ってきたらシュークリームを出してね」と母親がお店に言ってくれていて。だから今でもシュークリームを食べると、安心するんだけど、なんだか寂しい気持ちになります。

磯野:今のお話にあったように、意味って感覚や感情に根差しているという点も重要ですね。そういう形の記憶を呼び覚ます効果が、食べ物にはある。 あと、時空間の切り替えという効果・意味もありますね。これを食べると、もうここから違う時間だ、というような。例えばお酒は典型的で、お酒を飲んでいるときはある種の非日常空間になりますね。あるいは結婚式とかで、お酒が飲めない人もちょっとだけ飲んだりしますよね。あれは、祝うという時空間に切り替えているんです。

最後は人類学者のオードリー・リチャーズが調査したベンバという民族の例です。「私の目の前でトウモロコシを4、5本食べた後、彼らはこう言った。腹が減って死にそうだ、俺たちは今日1日何も食べてない。」いや、さっき食べましたよねって。これは何かというと、ベンバの人たちは、主食としているウブワリ(雑穀を潰してペースト状にしたもの)を食べていないと、トウモロコシをいくら食べても食べたことになってないんです。皆さんもいっぱい食べたはずなのに食べた気しない、ということがあると思いますが、食べた気にさせてくれる、ということも意味なんです。食べ物の意味には身体感覚や感情をつくり出す役割があります。

ではワークシートをお配りします。今お話しした、人間関係の繋がりを維持する食べ物、自慢の食べ物、過去を呼び覚ます食べ物、時空間を切り替えする食べ物、食べたという気にさせる食べ物の5つをそれぞれ考えて、近くの席の方と共有してみてください。

磯野:それでは、聞いていきましょう。西原さんのグループではどんな意見が出てきましたか。

西原:人間関係をつくり出す食べ物としてはお中元とか、バレンタインデーのときの友達に配るチョコとか。自慢のための食べ物はやっぱりInstagramにあげる食べ物ですね。映えるものや誰かの存在を匂わせるもの。過去の記憶と結び付く食べ物は、お母さんが作ってくれたポテトサラダとか、実家に帰ったときに食べられるものが出てきました。

磯野:私がいたグループでは、時空間を切り替える食べ物として、朝に家族が作ってくれる塩おむすびという話がありました。それを食べるとこれから活動を始めるぞという切り替えになるそうです。あとは誕生日ケーキやおせちもあるかと思います。食べた気にさせてくれる食べ物は、みんな白米ということでした。

では、ここから摂食障害のお話に移っていきたいと思います。 『なぜふつうに食べられないのか』から抜粋を持ってきたので、それを読みつつ進めたいと思います。摂食障害の当事者の方にとって食べ物の意味がどういう風に変わってしまっているのかを読みながら考えてみてください。

澤拓美さん(仮名)は高校生のときにダイエットを始めて、どんどん痩せてしまいました。そして入院をして行動療法を受けることになります。行動療法は、例えば体重が1キロ増えたら外に出ていいですよとか、ラジオを聞いていいですよ、というように行動制限が外れていくんです。簡単にいうとご褒美をもらう形で体重を増やしていくという療法なんですけど、彼女はこういう風に言っています。

食事療法で徐々に体重を増やし、着々と「ごほうび」を獲得しながら、五ヶ月が過ぎました。その頃には、病院から学校に通っていました。仲の良い友達にも会え、授業も受けることができて、ほんとに嬉しかった。そしてとうとう十月のある日、退院することができました。体重は入院時より一〇キロ増えました。
しばらくは、幸せな日々が過ぎました。しっかり食事をとる私を見て、両親も安心したようでした。料理は、きちんとカロリー計算して、母と二人で作りました。でも、カロリーが計算してあるからこそ、不安なく食べることができたのです。つまり、計算しなければ、食べられなくなってしまっていたのです。M先生は、「これからはきちんとカロリー計算をして食べるように」と念をおしました。そうでないと、またどんどん体重が減ってしまうかもしれないからです。病院に引き続き、家でもきっちり管理された食事をとることで、私は「自由に」食べることを忘れてしまいました。あくまでも「体重を減らさないため」の計算が、「体重を減らさないため、そして増やさないため」の計算になってしまいました。
結局、私の気持ち自体は何にも変わっていなかったのだと思います。太るのが怖いという気持ち、たくさん食べることへの不安などは、この入院生活ではまったく解消されませんでした。頭にあったのは、ただただ「ごほうび」をもらって退院したい、ということだけでした。その結果、体重は戻ったものの、心の問題は置き去りのままだったのです。「食べたいものを食べる」という、小さい子どもでもできる簡単なことが、やはり私にはできないままでした。ここで完治しなかったことが、こんなにも後々まで後を引くことになるとは、この時は夢にも思っていなかったのでした

磯野:澤さんの場合はカロリー制限どおりに食べているかということが、食の全てになっていきます。カロリーが分からなければ食べられないという状況です。次は田辺敬子さん(仮名)という方の語りです。

「お昼は普通に食べよう!」って思っても、食べてるうちに胃が張ってくると吐きたくなり、授業をサボったり、サークルも理由をつけて休み、全部の食堂によって過食。帰る途中にあるスーパーなどに寄ってお菓子、パンを大量に買い込み電車の中で胃に詰め、家で一生懸命吐く。学校で吐くときももちろんありました。


田辺:(食べると)どうしても我慢が出来なくて、吐き続けてましたね。入って来ると胃が膨れるじゃないですか、それが無理でしたね。膨れている状態が。気持ち悪くなっちゃって。

磯野:そんなにたくさん食べれば当然ですよね。

田辺:そこまで行かなくても、胃に入っている感じがだめでしたね。過食嘔吐しているときは腹筋に力をいれて、(食べ物が)下に行かないようにして。

磯野:そんなことが出来るんですか!

田辺:意識をしてやっていましたね。

磯野:すごいですね。

田辺:許せなかったんですよね。胃より下に食べ物が行くのが本当に嫌で。

磯野:それは、小学校や中学の頃にもあった感覚ですか?

田辺:ないですね。吐き始めてから身についた感覚というか、どんどんやせていって、それがすごい快感になったときがピークでしたね。

磯野:そして、(過食嘔吐がそれほどひどくない現在は)そういう感覚自体が少ない――面白いですね。人間の感覚って。

田辺:でも過食するとやっぱり、「あー、何か流れている」って感じがありますね。消化している感じが

磯野:今、澤さんと田辺さんの2人の食の語りをご紹介しました。田辺さんはカロリーも気にしていたんですけれども、カロリーよりも栄養素を非常に気にされている方でした。

今からまた時間を取りますので、今度は澤さんと田辺さんの語りを読んで、この2人にとって食べ物が、どういうものに変わってしまっているのか。そして、それは皆さんにとっての食べ物とどういうふうに違うだろうかということを、先ほどのグループで考えてみてください。

磯野:では西原さんのグループではどんな意見が出てましたか?

西原:澤さんの方は食事が条件をクリアするものみたいになってしまっているという意見がありました。田辺さんの方は食事が作業になってしまっていて、こういう身体感覚ってみんな意識しないことだと思います。ちょっと食べ過ぎたからやめようという感覚とは違って、体の中に入れなくてもいいものを取り込む作業なんじゃないかと思いました。

磯野:この2人に関しては、食べ過ぎたというのは自分が感覚的に感じるものではなくて、数値としてどうなのかということです。澤さんの場合は、例えば1食300キロカロリーしか取らないと決めていたら、おなかがすいてようといっぱいだろうと、そこを超えては駄目。ある意味、自分の感覚を切っていくような形になっています。

一方、田辺さんの語りはどうでしょう。皆さん食べるときに胃に注目することありますか。今、胃が膨れている、消化している感じがある、胃より下に食べ物をやりたくない。かつ、食べるではなく、消化させると彼女は語ります。食べることが生理学の教科書みたいになってくるんです。これは先ほど皆さんが、おいしい食べ物でお話ししてくれたものとはかなり大きく異なってしまっていることが分かると思います。
もう一つ、抜粋を紹介します。まず田辺さんです。
そうですね。でも、もう「体に悪い」って言うのが自然条件として出てきちゃうって言うか、そういうブロックが最初からあるので、味だけで素直に(おいしい)っていうのがもうできないんですよね

そして澤さんです。『でも、自分で「おいしい」と思うことを許していないというか。味は好きだけど、最初から私は皿のここまでしか食べないと決めているんだから、あと一口っていうのは絶対に許せなかったので。だから、「『おいしい』って感じるか」といわれれば、味は好きという「おいしい」なんですけど、だけど、「おいしい」からといってもっと食べるかというと、そうではなく、「おいしい」からといって、口で感想に出すこともできなかった。』

皆さん、「おいしい食べ物はなんですか」と書いていただいたとき、こんなに複雑に考えましたか。多分、ぱっと出たと思うんです。でも、田辺さん、澤さんの場合は、食べ物をこうやって栄養素に分解して生理学的に考えて、これは体に良いか悪いかという視点が入ってくる。この食べ物の栄養学化、あるいは生理学化を極端に行った結果、自然においしいと思う気持ちがなくなってしまう。おいしいかどうか分からなくなってしまう。

これを先ほどの「信号」と「予兆」、「象徴」のところに当てはめて考えてみましょう。いわゆる糖質何グラムとか何カロリーというのは、グローバルの基準ですよね。どこに行っても同じだと思います。すなわち、カロリーや栄養素は「信号」とか「予兆」の領域に入っています。他方で、家族が握ってくれたおむすびがおいしかったとか、友達と食べたカオマンガイがおいしかったというのは、「象徴」の部分に入ってきます。つまり、私たちがおいしいと思う感覚は、「象徴」の部分、意味の部分が非常に重要になってくるんです。食べ物が「信号」「予兆」のほうで全て理解されるようになると、おいしいと直感的に感じることすら、難しくなってしまいます。すなわちおいしさは意味から発生してるということになると思います。

コロナ禍以降の現代社会は、拒食症とか過食症みたいな社会になってしまったなと、私は思っています。生活の医学化、つまり生活の部分が全て「信号」「予兆」のほうの言葉に置き換わっていくということです。生活から意味が消えて、「信号」「予兆」に変わっていく。例えば、会話は「飛沫の拡散」という言葉に置き換わりましたよね。あるいは集まることは「感染リスクの上昇」であるという風に、全て医学的な言葉に生活が置き換えられて、しかもそれに沿って行動することが、正しいということになったわけです。

ところが、今ここに人が集まっているということ、それは食べることと同じように非常にさまざまな意味をはらむはずです。そしてその意味が、私たちの人生そのものを形作っていくと思うのです。

例えばこれが、「これだけ集まっています。こういうふうに飛沫が拡散して、何パーセント感染リスクが上がって、危ないからやめたほうがいいですよ」という形で、どんどん意味の部分が「信号」「予兆」に置き換わっていく。すると、私たちが意味の中で生きているという、人間として非常に重要な部分がないがしろになっていく、ということになります。

これは食の部分では、コロナ禍の前から起こっていました。2015年前後から、医師が一般向けに書いた正しい食事に関する本が流通するようになります。特に糖質制限が顕著でした。糖質制限は、糖質を食べると血糖値が上がるから、それはよくない。だから血糖値が上がりにくい食べ物を食べなさいというわけです。おむすびにどんな意味があるかは関係ないんです。おむすびは血糖値が上がる。これが一番大切。

栄養学や生理学が全部悪いといってるわけではないんですが、こういう医学の本にも流行りがあります。例えば2015年あたりからは、糖質制限が盛んになりました。それまではカロリー制限だったんです。それが糖質制限に変わって、今の流行りは断食です。「信号」「予兆」の部分って科学的だから正しいといわれたりもするんですけど、実際はトレンドがあって、その正しさすらころころ変わるんです。私が人類学者として懸念を覚えるのは、正しいといわれるものがころころ変わっているうちに、私たちが食べ物とか食に対してつける意味付けがどんどん薄れてしまう可能性があるということです。

クリフォード・ギアツという有名な人類学者は、「人は自らが紡ぎ出した意味の網目の中で生きる動物である」という言葉を残しています。さっき西原さんはシュークリームを見ると、お母さんとのちょっと切ない思い出が湧き上がってくるとおっしゃいました。これは西原さんがその意味の中で生きていることを示します。
それぞれが、自分がつくり出した意味の網目の中で生きている。私はそのことが、人間を考える上でとても重要だと思うんですけど、それを「科学的じゃないから」と明け渡していくことの恐ろしさを、私はコロナ禍で見た気がしました。とにかく飛沫が拡散するかどうか、感染リスクが高いか低いかで全てが解釈されていってしまう。この状況は私が研究してきた摂食障害と非常にかぶる部分があります。

西原:私が個人的に感じているのは、コロナの前から、食べることが面倒くさいとか、食べることへの情熱や好奇心が何となく薄れてきているんじゃないかということです。それは例えばSNSを見ただけで体験しているような気になってしまったりとか、いろんな情報の流通の変化の背景があるのですが。

私の長年の友人で20歳の頃からずっと「とにかく食事をしたくない、錠剤一つで済むならそれでいい」と言い切ってる子がいて、その子は全部面倒くさいんです。結婚も面倒くさいし、お付き合いするのも面倒くさい。やらなくていいなら、そのほうがいいと言っています。

そういう傾向の人って、その後、増加してきてるなという印象があるんです。カウンセリングをしても、それは摂食障害ではないんだけれども、食べるという直接の体験とか、人との関わりから離れてきている。そういう傾向があるんじゃないかなということを、磯野さんの話を聞いて思い出しました。

磯野:コロナ禍は顕著だったと思うんですけど、人間ってリスクが少なくて楽なほうに流れる動物だと思うんです。そうするとぶっちゃけオンライン授業が楽なんですよ。家でテレワークしていれば楽だし疲れないし、かつ、人と会えば感染リスクも上がるじゃないですか。だったらおうちにいたほうがいい。食べることも同様で、サプリメントで毎日同じもの食べてたらリスクが少ないですよね。そこに変化があることが、面白さではなく怖さになってしまっている。

私はこの勢いは、止まらないような気がしています。ますます社会はオンライン化していくだろうし、ますます動かなくなるだろうし、それが楽だからいいよねという風に進んでいき、最後は産まれるのもやめようとなるんじゃないか、というディストピア的な想像もしています。

多分、西原さんが感じてるような世界がもっと広がるんじゃないかと思って。

西原:そういう意味でやはり今、危機だと思うんです。そこでいろいろな表現に関わっている人には、それを克服するような、越えていくような表現をしてほしいなと私は思っているし、どんどん人が楽な方向に、流れを変えない方向に行ってしまう今の動きを何とかしていきたいなって思っています。

磯野:やはりそれぞれが人生の中で感じる意味の大切さとか、その意味が感覚のレベルにまで織り込まれていることがとても重要なことだと思っています。皆さんが、どういう世界と、意味を折り合って生きているかを大事にしていただきたく、今日こういうお話をさせていただきました。これで終わりにします。ありがとうございました。

●参加した国学館高等学校 調理科のみなさんのコメント

・私がこのイベントに参加して心に残ったことは、磯野さんのおっしゃった「人は食べ物に込められた意味を食べている」という言葉です。意味を感じながら食べることで「美味しい」や「楽しい」という感覚を感じていると改めて実感しました。(3年生)
・講師の方からお話を聞くだけでなく、参加している人たち全員で話し合ったり、共有したりするワークショップ形式になっていて、知らない人とも話し合うことができて良い体験になりました。(3年生)
・食べ物をおいしいと思えることはありがたいことなんだなと思いました。これからは、人に食べ物がどう感じられているか、どう映っているかを想像しながら調理について学びたいと思います。(3年生)
・お話の中で「医療的な視点ではこれは良くない。しかし人類学的視点でみると違う捉え方ができる」と話されていて、一つの物事も見方を変えれば別の答えが出ると知りました。これから日常の中でも視点を変えて物事を見ることで、色んなことに対して疑問を持ったり、寛容になったりできるのかなと思いました。(1年生)

Profile

磯野真穂(人類学者)

独立人類学者。専門は文化人類学・医療人類学。博士(文学)。早稲田大学文化構想学部助教、国際医療福祉大学大学院准教授を経て2020年より独立。身体と社会の繋がりを考えるメディア「からだのシューレ」にてワークショップ、読書会、新しい学びの可能性を探るメディア「FILTR」にて人類学のオンライン講座を開講。著書に『なぜふつうに食べられないのか――拒食と過食の文化人類学』(春秋社)、『医療者が語る答えなき世界――「いのちの守り人」の人類学』(ちくま新書)、『ダイエット幻想――やせること、愛されること』(ちくまプリマ―新書)、宮野真生子との共著に『急に具合が悪くなる』(晶文社)などがある。
(オフィシャルサイト:www.mahoisono.com / Blog: http://blog.mahoisono.com)

Profile

西原珉(キュレ—ション、ライター、心理療法士)

現代美術分野のライター、評論、キュレーションで活動した後、渡米。アートマネージメントをしつつ、ロサンゼルスの福祉事務所でソーシャルワーカー兼メンタルヘルスセラピストとして働く。個人・グループ対象に認知行動療法、危機介入、家族療法、芸術療法、遊戯療法を含むセラピー全般を行うほか、低所得者住宅、DVシェルターなどでソーシャルワークとしてのアートプロジェクトを企画実施。2018年から日本に戻ってアートとレジリエンスに関わる活動を試行中。2021年より秋田公立美術大学教授。米国カリフォルニア州臨床心理療法士免許。

撮影| 坂口聖英 Photo : Masahide Sakaguchi
編集|藤本悠里子(NPO法人アーツセンターあきた)

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