秋田市文化創造館

レポート

「未来の生活を考えるスクール」第9回開催レポート
まちが終わること、続くこと

日時:2022年12月18日(日)13:00〜15:30
ゲスト:工藤尚悟さん、前田陽汰さん
主催:秋田市文化創造館

新しい知識・視点に出会い、今よりちょっと先の生活を考えるレクチャーシリーズ、「未来の生活を考えるスクール」。

第9回目となる今回は、縮小高齢社会における地域づくりやサステイナビリティ教育など、新しい発展や豊かさの定義を研究する国際教養大学准教授の工藤尚悟さんと、「変化にもっと優しく」という理念を掲げ、地域の変化をありのまま受け止めていくことのできる状態をめざすNPO法人ムラツムギ共同代表理事の前田陽汰さんをゲストに迎えて「まちが終わること、続くこと」をテーマにレクチャーと考えるワークを行いました。


●前田陽汰さんレクチャー

まずは、前田陽汰さんのレクチャーからスタートです。現代社会に充満する「終わること」を忌避する風潮はどこからやってきたのか、終わっていく変化に向き合うための「無常観」というメンタリティーについてお話をしていただきました。

前田 こんにちは。NPO法人ムラツムギの代表理事の前田と申します。普段私は、葬儀屋として東京で働きながら、まちづくりに関わることをしています。慶應義塾大学では、「軟着陸」をキーワードとして、ものごとをどう着地させていくかを研究しています。

私は、島根県の隠岐郡海士町に3年間暮らしていました。
そこに住んでいたときに気付いたことがあります。限界集落や消滅可能都市のようなネガティブなラベルをふるさとに貼られてうれしい人は、いないのではないかと。私も海士町が好きだったので、そういうラベルを貼られて、もちろんうれしいと思いませんでした。なぜ、前向きになれない言葉でしか人口減少や高齢化というこの状況を表せないんだろうと、もどかしく思っていました。

ネガティブな言葉の裏側にあるメンタリティー

こういう言葉の裏側には、成長することや続くことが正義であるという前提があるように感じています。テストの点数も、1点でも高いほうがいい、大学や高校に進学するときは偏差値が高い方に進学しようとか。アルバイトや仕事を辞めることも、なぜか良くないと言われたりします。

成長や続くことが前提に強くあり過ぎるがゆえに、それが難しいと感じた時、「限界」や「消滅」という言葉で表してしまう。これは、最近になって生まれたものだと思っています。少し飛躍してしまいますが、日常に死があったときは、もう少し終わることになじみがあったのかなと思っています。

昔は家で生まれて、死ぬときも家で死んでいく。死が日常に溶けていました。でも、今は死を日常から排除するようになっている。病院で死ぬというのはある種、病院という非日常の場所に死を隠すようになったのだと思います。それゆえに、死に出会ったときのショックが大きくなってしまった。自然の摂理である、生まれたら死んでいくこと自体からも目を背け、死が日常にない社会を目指したから今の状態になっている。これが、「『終わること』を忌避する風潮は、死を日常から排除したことから来ているのではないか」という私の仮説です。

現代に合ったかたちで、人間の命には限りがあっていつか死ぬということが感じられる、死に触れる状況をつくっていけないか、つまり、死との出会い方をリデザインできないかと思い、葬儀屋という死に最も近い仕事をしています。

遺書を書き棺桶に入ることで「死」を近くに感じる

私がやっている「株式会社むじょう」は、自宅葬を専門とする葬儀社です。また、棺桶写真館という取り組みも東京の渋谷で不定期開催しています。一回棺桶に入ってみて、蓋を閉じると、このまま死んでいいのだろうか…やり残したことはないのか…と、感じるものがあると思います。死を身近に感じることが少なくなっているからこそ、自分の死を意識するような機会を日常につくってみる取り組みです。

他にも、亡くなった親への思いを手紙にしてインターネット上に公開する「死んだ父の日展」「死んだ母の日展」や法人の解散支援、「何を守って、何を引いていくのか」というような自治体の引き算支援もしています。これらもある種、葬儀に根指している考え方です。

「しょうがない」と言える無常観を取り戻す

死との出会い方をリデザインすることが、「無常観」を取り戻すことになると私は考えています。無常観とは「悲しみも喜びもずっと続くことはない」という変化をそのままに受け入れる態度です。成長し続けることが難しい時代に突入していくときに、変化することはしょうがないと言える「無常観」が救いになると思っています。

ここからは、まちづくりのどんな場面で無常観という態度が生きてくるのかをお話しさせていただければと思います。私が関わっている、島根県海士町の「引き算プロジェクト」では、集落のルールや行事が更新されてないことを課題に挙げています。例えば、お祭りは昔から7月14・15日にやる決まりがあったとします。海士町は農村・漁村なので、ほとんどの人が漁師や農家として働いていました。でも、今ではサラリーマン、役場勤めの人が多くなっている。もし、7月14・15日が平日だった場合、会社勤めの人は、無理やり仕事を休む必要があります。この状態は、現代に合っているとは言えません。

そのときに、何を守りたいのか、そのために何を変えるのかを考えます。7月14・15日にやることが大事なのか、お祭りをやることが大事なのか…。もし仮に、7月14・15日にすることを変えず現状維持を目指した場合、漁師や農家など、自分で自分の休みをつくりやすい特定の人が疲弊してしまいます。そうすると、その人の住みやすさが損なわれてしまって、そこで暮らし続けることに不安を感じるという状況に陥ってしまいます。

現状のままやり続けることは、ある意味、気楽ではありますが、長続きしません。そのまちの人々にとって大切なものを守るために今の状態に合っていない条件を引き算することで、無理なく続けることできます。けれど、変えることにも苦しみが伴います。「いままで続けてきた決まりを変えるのか」と否定的な意見を持つ人もいるでしょう。

決める苦しみと惰性の気楽さのバランスをどう取っていくか…。そんな時に「無常観」という態度が必要になってくると思っています。そこで、「変わっていくことは仕方ない」「しょうがないよね」と、言えることが大事です。けれど「しょうがない」が、言いづらい社会だと感じています。例えば、海など自然を相手にする仕事だと、海が荒れているから船が出せない=「しょうがない」と受け入れることができます。けれど、都市で営業の仕事をしていてノルマが取れなかった時、「しょうがない」とは返ってこないと思います。人間中心でコントロールできるものが日常に増えてきてしまっているが故に、現状の社会では「しょうがない」が言いづらいんです。

人間も生き物で、自然の一部です。そう考えると、人口減少も自然の摂理なわけです。消滅や過疎も、人がいなくなったという変化でもありますが、人が住む役割を果たしたことで起きる変化であるとも解釈できます

日本の人口のピークは、2008年の1億2808万人と言われています。今の人口が1億2600万人。ピークからだと200万人減少しています。そこまで減少している印象はありませんが、80年後まで見ていくと3700万人〜6400万人が減少するという数字がもう出ています。つまり、今から80年の間に、約7000万人が減るということです。年間で考えると90万人。毎年、1つの県がなくなるくらいのペースです。もちろん、消滅や過疎を認めることに抵抗があることもわかります。でも、乗り越える痛みをどこかの世代が引き受けなければ、人口減少や経済が成長しなくなった現実を受け入れることは難しいでしょう。 

未来の人口を数字で見た時に、国の人口を増やすことが、難しいことなのだと誰もが感じると思います。政策・施策ももちろん大事ですが、この現実を実社会に落とし込むときに、人々がそれをどう受け入れて、どんな姿勢で向き合っていくのか…。これは、一部地域における問いではなくて、世界共通の問題です。日本は、人口減少との付き合い方のモデルを世界に提示することができるポテンシャルが十分にあると感じています。

以上、私からは、「無常観」というメンタリティーが変化を受け入れていくためのヒントになるのかもしれないという問いかけでした。


●工藤尚悟さんレクチャー

続いて、工藤尚悟さんのレクチャーです。ものごとが「続いている」というのはどんな状態なのか、まち・地域を「間(あいだ)」として捉える見方についてお話しいただきました。

工藤 前田さんは「終わり」に視点を向けられていていたので、私からは「続いていく」ことについてお話します。どちらの視点もあることで、バランスが取れた材料がそろい、議論のテーマ設定ができると思っています。

私は普段、秋田空港の近くにある国際教養大学で准教授をしています。その他にも、南アフリカのフリーステート大学で客員研究員としてアフリカのコミュニティー開発もしています。研究テーマとして、人口減少・高齢化の中で地域が続くということはどういうことなのかをまちの中で具体的に観察しています。

「現象」の意味を考える

具体的な話の前に、このテーマへの向き合い方として、何かが終わること・続くことに対する、良い・悪いという価値判断を一旦保留したいと思います。例えば、まちが終わることと続くことは、どちらも同じ社会現象です。そこで、それらを「現象」と捉えることで、その現象が一体どういう意味なのかを検討したい。これが、私のレクチャーの目的です。

前田さんのお話にもあった、終わることに対しての悲しみとか憤り、それから続くことに対する喜びとかこだわりは、現象の中にある、非常に大事な一部だと思っています。一旦保留することは、感情の部分を取り除いて考えるという意味ではなくて、一旦価値判断をストップして、そこで起きている「現象」を考えたいということです。

私の専門はサステナビリティで「持続可能性」と訳されます。まさに何かが続くことが、どんな条件で起きるかを考える学問です。最初に、サステナブルな状態の定義を押さえていきたいと思います。何かが続いている状態、つまりサステナブルな状態は、ある状態がずっと変わらないこととは違います。

例えば、道端に石ころが落ちていて、その状態がずっと変化しないからといって、何かが続いているとか、サステナブルだとは言いません。ただ、物質として安定しているだけです。何かが続いていくサステナブルな状態は、常に変化しながらも本質的な状態や価値が続いていることです。

五城目町の中心を流れている馬場目川

これは私が拠点を置いている五城目町の中心を流れている馬場目川です。川は、ある地形上のくぼみに水が入り込んで、また反対側から出ていきます。当然ながら、見ている川は、ずっとそこにありますが、その川をつくる水は常に入れ替わっています。水位も日によって違います。雨や雪が降って川の水となったり、支流から水が流れてきたり、人工的に川の水が足されることもあるかもしれません。

こうして、常に川は動いていますが、私たちが見ている川は、水の流れ込みと流れ出の「間(あいだ)」なわけです。川はその水が常に入れ替わっていて、水位が上下していても、川は川として、そのままそこにある。つまり、その本質が持続されています。これが、何かが続いていくこと、持続可能であるということです。

山には、微生物や小さい昆虫がいて、それを捕食する小動物がいて、小動物を食べる大きい動物がいます。動物や昆虫が暮らせる森林の環境があって、そしてその中に、人も取り込まれています。二酸化炭素と酸素の光合成による交換があって、太陽光の熱の交換があります。全てのエネルギーと資源の循環が、動いている状態です。では、社会にそれを当てはめるとどうでしょうか。  

持続可能なシステムを社会の中で考えると、途端にルールが難しくなります。ある国では人口が減っているから人口を増やす、他方では増え過ぎているから減らす、みたいな政策はできません。なぜなら、私たちは人権という価値観を大事にしていて、どの国でも生まれた人はパートナーを持つ権利があり、子どもを持つ権利があると考えるからです。

つまり、持続可能な状態を社会で考えるときには、価値観とか私たちの倫理観とか、何を守りたいのかという価値規範の話になり、私たちが社会で生きる中で、そもそも「何を」持続可能にしたいのかという論点にたどりつきます。

今の地方創生や地域の議論は、基本的に人口動態を捕まえて、人がこのくらい減っていくから、地域の担い手や経済規模がこのくらい減少するというような話になっています。私はこれを静的な視点から指摘する地域の衰退と考えます。その時々の場面の人口をぱっと切り出してきて、単純に因果関係を見ている。人が減ったから空き家が出てくる、だから、何とかしなきゃいけないと、焦らせるような議論になります。A or Bみたいな判断をしがちなのが、静的な視点です。

私はこの静的な見方は、限界だと思っています。変化を受け入れながらも本質が変わらないことが持続可能な状態、つまりサステナブルな状態なら、静的な視点で何かが衰退していくのを受け入れられないと、持続可能な状態はそもそも不可能だと思うからです。

まちや地域を「間(あいだ)」として捉える

まちや地域を静的ではなく動的に捉えたらどうかという、私なりの提案です。地域はいろいろな流れの軸でつくられていると考えてみる。その中から、3つの流れを挙げてみました。

1つ目は大人から子どもに対して、いろいろな文化や知識、経験を手渡す流れ。2つ目は、人が自然と関わる中で、里山的な暮らしをしていく流れ。3つ目はそこに暮らす人と、外から来る人の経験や知識が交流する流れ。これらは全て動的に起きることです。その間・その流れの一部のよどみとして、地域があるのではないでしょうか。こういう見方をすると、人口が減少しましたという静的な視点の議論を手放すことができます。人口が多くても少なくても、いろいろな流れの中で、まちをつくるという考えです。

まちが続いていくことは、おそらく「間(あいだ)」としての地域やまちの流れを、強くしたり太くしたり、また新しい流れをつくることであると思います。では、逆説的に、終わっていくこととは、その流れが止まり、間をつくる人々や物事の構成要素が変わらないことです。いつまでも同じ人たち、同じ物事が同じまちをつくり続ける。それがおそらく、終わっていくことではないかと思います。 続いていくことと終わっていくことは、二項対立的な、A or Bではなくて、終わっていく部分と続いていく部分の両方があって、それらが併存する、そして動き続けて、常に変わり続ける。要するに止まっていないということが、まちが続いていくことかと思います。


●対談

レクチャー終了後、お二人による対談を行いました。印象的だった場面を一部ご紹介します。

東京は居心地が悪いから気になる

工藤 前田さんが活動拠点を東京にしている理由は何なのかをちょっと聞いてみたいと思いました。

前田 ありがとうございます。なぜ今、東京でやっているかというと、個人的に東京がすごく居心地が悪いから、あと気になることが多いからです。例えば、どこでもそうだと思いますが、野生動物が死んでいたら、すぐに役場の人が回収してきれいにするとかです。それが当たり前になっていますが、それをやり過ぎたがゆえに、もはや自然がない。

気付いたら、人間のおごりみたいなものがすごく充満している感覚があって。日本全体を動かす中心にあるのが、今の東京だと思いますが、そこにいる、政治家がそういうメンタリティーで生きていると、政策もそうなってしまう。自分がやっていることが、直接的に働き掛けているわけではありませんが、東京を活動拠点としている理由としては、課題意識が東京に向いているからというのが一番大きいです。

まちを話す「私」はどこにいるのか?

前田 レクチャーから、まちや地域を「間(あいだ)」として捉える見方を、この場にいる人たちや私も勉強させていただきました。ただ、それを頭では分かっているけれども、現実がなかなか変わらないもどかしさ、みたいなものを先生自身がお持ちなのかと思います。もし、まちや地域を「間(あいだ)」として捉える見方が現実に落とし込まれた例があれば教えていただきたいです。

工藤 何ができるのかという問いに対して、誰が答えるのかが問題だと思っています。僕が答えるのは、多分、間違いです。新しい視点を得たときに、その視点を使って考えたら、おそらくこうだろうということを、個々人が動いて考えることが、最終的なゴールだと思います。

だから、私や前田さんが取り組んでいることを同じようにやる人たちが100人出てきたら、それがゴールなのかというと、そういうことではなくて。それぞれの視点から見えてくるものの中で、それが「間(あいだ)」だったら、どうやったら流れを強くできるだろうかとか、太くできるだろうかと考えて行動する自律性がないといけないと思います。それはすごく高い目標のように聞こえるかもしれません。でも、方法を示して、それに従って動くようにつくってきたのが今の社会だから、そこを変えないと、本当には変わらないだろうと思っています。

皆さんと議論する前に話すか悩んだのは…テーマを話すとき「私」はどこにいるのかです。考える対象を自分の外に出して、それをよく観察して、問題を見つけて分析して解決策を持って介入する。そのときの私は、対象の外側にいます。

ものごとを考えるときに、私たちは、考える対象を自分の外に出しがちです。なぜなら、まちを静的に見る時には見る側も静的に見ないといけないからです。でも、よく考えてみると、まちについて考えるときの私はもうまちにいます。

なので、まちの中に私がいるということは、私が変化した時点でまちという対象が既に変化してると考えられます。このイベントに参加する前と後で皆さんが違うように、あなたがまちをもう構成してるのだから、この話を聞いた時点で、まちはもう変わってるとも言えるんじゃないかって思うんです。なぜなら、私がまちの一部だから。

スケールの大きな変化には外からの介入ももちろん必要です。でも、関わっている人たちが変化するために一番簡単なのは、「私」が変わることだと思います。静的な視点も動的な視点もどっちがいいって言ってるんじゃなくて、場面によって切り替えて見ることが大事だと思います。


●考えるワーク
最後に会場全体でディスカッションをする「考えるワーク」を実施。お二人のレクチャーや対談を聞きながら考えたことをふせんに書き出して全体で共有しました。「しょうがない」や「流れと流れの間」などが気になるワードとして挙げられたほか、参加者がこれまでに関わってきた商店街への思いや所属している団体に対するモヤモヤなど、参加者個々人が今回のテーマに興味を持つに至った背景を感じられるワークとなりました。

疑問は黄色、感想は緑、気になったワードはピンク
スクール終了後には、参加者同士の交流の機会として誰かと語り合うだけのバー「カタルバー」を開催

私たちは、人がいなくなった、行事ができなくなった、建物が朽ちていく…その様子を見て、「ああ、この《まち》が終わっていくのだ、もう続いてはいかないのだ」と感じてしまいます。けれど、それはまちそのものが終わってしまったのではなく、まちを構成していたものごとの一部が変化しただけなのかもしれません。まちに暮らす人々がその変化を受け入れることができたなら、まちは限りなく続いていく可能性があるのかもしれない、そう思わせてくれるスクールでした。

Profile

工藤尚悟
国際教養大学国際教養学部グローバル・スタディズ領域・准教授。東京大学大学院新領域創成科学研究科博士課程修了(博士・サステイナビリティ学)。南アフリカ・フリーステート大学アフロモンテーンリサーチユニット客員研究員。専門は、サステイナビリティ学、開発学、教育学、地域づくり。秋田と南アフリカ・ザンビアの農村地域を行き来しながら、異なる風土にある主体の邂逅から生まれる“通域的な学び(Translocal Learning)”というコミュニティ開発の方法論の構築に取り組んでいる。秋田県能代市出身。近著に『私たちのサステイナビリティ:まもり、つくり、次世代につなげる』岩波書店。

Profile

前田陽汰
島根県隠岐郡海士町で3年間生活する中、人口減少が著しい地域を目の当たりにし、地域活性化や人口増加といった成長至上主義では日本は持たないことに気づく。それから家や山などの私財、寺や学校といった公共財、地域そのものの畳み方に関心を持ち、慶應義塾大学にて「物事の畳み方」をテーマに研究活動を行う。研究の中で、これから日本に訪れる「撤退戦」に備えるには縮小や衰退を含む「変化」にもっと優しい眼差しを向ける必要があると考え、「変化にもっと優しく」というビジョンを掲げるNPO法人ムラツムギを立ち上げる。

撮影|伊藤靖史(Creative Peg Works)
構成|齊藤夏帆(秋田市文化創造館)