クロストーク
「まれびと/風土/日本海」イベントレポート(前篇)
石川直樹(写真家)×伊藤俊治(美術史家)
日時:2024年1月14日(日) 14:00-17:00
会場:秋田市文化創造館 1階 コミュニティスペース
主催:秋田市文化創造館
1月14日、当館1階コミュニティスペースにて、写真家の石川直樹さんと、秋田市土崎出身の美術史家、伊藤俊治さんをお迎えし、「まれびと/風土/日本海」と題してトークイベントを行いました。1月1日の能登半島地震の直後の開催となり、お話の前半は、石川さんが日本の来訪神儀礼を一冊にまとめた写真集『まれびと』そして写真集『奥能登半島』にも触れながら、秋田の伝統行事にまつわる、石川さんの写真と言葉によるレポートです。
【石川直樹さんのお話】
●秋田と大日堂舞楽
伊藤先生は僕の恩師です。東京芸術大学の大学院、先端芸術表現専攻の修士課程と博士課程で、ずっと教えていただいていた先生です。きょう、僕の役目は、伊藤先生のお話のイントロダクションになるように、自分が見てきたものを話して、バトンを渡したいと思います。僕は今年の年明けから秋田にいたんですよ。お正月の夕方に秋田県に入りました。能登半島地震のことは、羽田空港で大館能代空港行きの飛行機に搭乗してから、離陸までのわずかな時間の間にスマホのニュースで知りました。
僕は15、6年前から秋田県に何度も通っています。2019年に『まれびと』(小学館)という写真集を出しました。伊藤先生にも文章を書いていただいていますけど、その写真集に、秋田で撮影した来訪神行事の写真がたくさん掲載されています。昨年の2月に、小正月行事の取材で、久々に秋田に来ました。そして、今年もまた大日堂舞楽の撮影で、元旦から秋田にいたという経緯があります。1月1日の夕方、大館能代空港から八幡平に向かう車の中では、能登半島の地震のことで、気が気ではありませんでした。
大日堂舞楽は1300年の歴史があるといわれ、国指定重要無形民俗文化財、ユネスコ無形文化遺産にもなっている行事です。1月2日の朝から鹿角市八幡平の⼤⽇霊貴神社(おおひるめむちじんじゃ、通称⼤⽇堂)の中で行われますが、その前夜の深い時間から儀式があって、朝8時半から本番の舞楽が大日堂で始まります。舞楽全般は「ザイドウ」と呼ばれ、幾つかの種類の踊りがあるわけです。僕は朝からひたすら写真を撮りました。
きょうのお話の中心は「まれびと」になりますが、大日堂舞楽ももともとは都から来た楽人が伝えたと言われています。異質な他者がコミュニティーの中にやってきて生み出した舞いが発祥だった。すなわち、外の人から伝えられたものが今も継承され、いつしか伝統芸能になったということです。
有名な黄金の仮面の「五大尊舞」、迫力がありますね。この仮面が面白いのは、どこにいても目が合う、左にいても右にいても、高いところにいても低いところにいても、仮面を見ている自分をいつも見つめ返されている感じがあります。ぼくは見ているけれども、常に見られてもいる。とても不思議な感覚でした。
大日堂舞楽を撮影し、その日の午後の便で東京に帰りました。16時頃羽田に到着し、その2時間後には、海上保安庁の航空機とJALが滑走路で衝突した事故があって、能登半島地震とも重なり、非常に忘れ難い年明けになりました。秋田のこの大日堂舞楽は、そうした狭間にあったものなので、一生忘れないと思います。
●秋田の異形の神様
年明けからさらに10日ほどして、昨日「アマハゲ」という行事を撮影しにいきました。「来訪神」に「まれびと」という言葉をあてたのは民俗学者の折口信夫です。来訪神行事というのは主に東北や北陸の日本海側と、九州や沖縄の海沿いにある行事で、本州の真ん中にはほとんどありません。秋田県内には、ナマハゲ、アマハゲ、ヤマハゲ、アマノハギ、アマメハギ、ナゴメハギとたくさんありますね。
昨日取材したアマハゲは、にかほ市金浦の赤石地区に伝わるもので、これまで見たことがなかったんです。アマハゲの行事の前に神社でどんど焼きがありますが、龍蛇神なのでしょうか、蛇の石があって、そこにしめ縄が掛けられていました。そして、どんど焼きが行なわれ、その後にアマハゲが出てくるんです。
そのどんど焼きには、門松や書き初め、古いお札などが持ち寄られ焼かれるのですが、今年に限ってなのか、船の木の模型や、片腕がもぎ取られた仁王様、あと、めちゃめちゃいっぱい、だるまが出ていました。そのだるまには、「400票当選祝い」となどと書いてあって、400票で当選する自治体ってどこなんだろうと考えてしまいました。どうして持ってこられたんですか、とうかがったら、たまってきたから燃やしにきた、とおじいさんがおっしゃっていた。
これは、どんど焼きの中に入れられる石です。男根の石と、女の人の女性器を象った石がつがいでありました。普段は、神社の真ん中にあるわけではなくて端っこにあるそうです。アマハゲの日、どんど焼きのときだけ社の真ん中に、この石を持ってきて、しめ縄を掛け、その上にたくさんの稲藁を積んで燃やします。その炎の中に、先ほどの船の模型やだるま、お札などを入れて燃やすわけです。
東北、北陸、いろんなところでどんど焼きを見てきましたが、藁の中に石、しかも男根と女性器の石を入れるというのは初めて見ました。燃やすと灰の中から、真っ黒になった男と女の石が出てくるわけです。
このどんど焼きが終わってから、アマハゲが町内を回ることになります。昔は中学生がアマハゲの行事の全てを執り行ない、のぼり旗がたくさん出て賑やかだったということをおじいさんたちがおっしゃっていました。昔は男の行事で、女の人は入っていなかったようですが、今年は女の人も来ていました。いまは少子化で、赤石自治会の大人たちが仕切っていますが、アマハゲに変身するのは、今も中学生です。
アマハゲになるのは中学生の男子2人で、最初に顔にせっけんを塗ります。肌が突っ張るらしいですけど、そのせっけんの上から硯の墨で顔を黒くすると色がのりやすくなるらしいんです。藁の衣装は1ヶ月ほど前に自治会の方々によって作られたもので、それを体に巻いたあと、40軒ほどの家々を回ります。目と口の部分がくり抜かれた目出し帽を首まですっぽりとかぶって、藁の衣をまとい、その後ろから他の子どもたちが太鼓や鉦(かね)を鳴らして、「アマハゲ来たじゃ」という歌をうたいながら町内を回ります。
中に入れないお家は外で、中に入れるお家は、神仏の前で15回垂直に飛び跳ね、くるっと身をひるがえして家から出てきます。アマハゲも、他のナマハゲ、ナゴメハギも全部一緒ですが、神様ですから、家に入って神仏の前で飛び跳ねているときは、おじいさんやおばあさんは手を合わせてお祈りをしています。
神仏がある部屋には昔の遺影が並んでいて、ご先祖さまが見つめている、ご先祖さまが帰ってきているような感覚があります。遺影や神仏の前で何かをするというのは、この後にお話ししたい奥能登とも関わってきます。僕は常に写真を撮って見ている側ですが、見られているという感覚もあって、来訪神の行事の撮影ではいつも背筋が伸びます。
それ以外にもたくさんの来訪神行事、まれびとを撮影してきました。有名な男鹿半島のナマハゲも撮影しました。古くから受け継がれているお面を使う場合もあれば、購入面といって、比較的新しいお面を使うこともあります。古い面を使っている真山地区では、ナマハゲは御山といわれている場所から降臨するといわれています。仮面に角はついていません。一方、日本の南のほうの来訪神行事は、海のかなたから、ニライカナイのような場所からやってくるといわれています。
ナマハゲは「鬼」といわれていますが、僕は「鬼」とは認識してなくて、異形の神様、そう思っています。
僕は一昨日、山形県の酒田から北上して秋田に入りましたが、女鹿(めが)集落を通りました。そこにも「アマハゲ」という名の来訪神行事がありますね。いろいろな来訪神行事をよく見ていくと分かりますが、鬼といってしまうと、仏教的な価値観で片付けられてしまうのですが、もっと別の異質な存在であり、神さまだと僕は思います。
次はにかほ市の象潟、石名坂の「アマノハギ」です。これもどんど焼きから始まりますが、ここでは男性の石、女性の石を燃やすことはなかった。どんど焼きや鳥追いの行事があり、そこで、こういう姿のものが出てくるというのが、秋田では一般的ですね。昨日、見てきたアマハゲに関しては、どんど焼きはやるけれど、鳥追いの行事はもう今はやっていないといってました。
このアマノハギの仮面、桑の木で作られた古いお面で、髪の毛のようなものは馬の毛だといわれています。自然の造形を利用して作っているので怖いんですよ。こぶみたいになっているところを鼻にしたり、もともとえぐれているところを目にしたりしているから、人間が主観的に作った仮面とはまた別の、精霊的な感じがするのが、にかほ市象潟、石名坂のアマノハギです。
次は、能代市浅内の「ナゴメハギ」です。ナゴメハギを撮りにいったのは、もう12年前、2012年です。ナゴメハギが面白いのは、番楽の面をかぶり、赤い着物の上に、藁のけらを着て山の神に扮しているところ。番楽というのは秋田や山形に伝わっている山伏神楽で、能の古い形態を残しているといわれています。昔、東北地方の神楽というのは、山伏たちが小正月に家を回って、悪魔払いの祈祷をしたらしいです。ナゴメハギは、その名残を受け継いでいるのかもしれません。
浅内地区は大きくて、100軒近い家を回ります。昨日のアマハゲも40軒以上を回りびっくりしました。南のほうの来訪神行事だと、集落の規模が小さいために5、6軒だけ回って終わるとか、2軒で終わりというものもありました。東北、秋田の来訪神行事は、結構な数を回るので、付いていくのだけでも大変です。このナゴメハギに関しては、地元の方によると、このケラの藁の材料が調達しにくくなって一時期存亡の危機になり、地区の外から、この藁を手に入れて、今も続けているとおっしゃっていました。
一軒一軒を回って酒を飲んだり食事したりするんです。最後には酔っ払って腹も膨れてくるんですけど、全ての家で歓待されるから大変です。まれびとの行事というのは、昔の人の、知らない人に対する接し方、受け入れ方、歓待の作法の原型ともいわれていて。例えば茶道でお茶をたてて人を迎えるとか、そういったことの、一つの古い根っこのようなものでもあるとも言われます。非常に示唆的な学びのある行事が、このまれびと、来訪神行事だと思います。
最後は秋田市雄和の平沢地区の「ヤマハゲ」です。これは悪魔払いとも呼ばれていて、米俵に使う桟俵(さんだわら)で作ったお面をかぶります。さっきの番楽の面もそうですし、これも見ても明らかに鬼ではないですよね。桟俵というのは、お正月に歳神幣や鏡餅を乗せるのにも使われるようで、民族学用語の辞典で調べましたが、病がはやると、桟俵に御幣とか赤飯とか、お神酒を乗せて川に流したりもするそうです。胞衣(えな)を乗せて埋めたり、投げたり、捨てたりする風習もあるとか。だから、忌むものを異界へ送り出す意味があるのではないか、それゆえ悪魔払いと、ヤマハゲはいわれているのかもしれません。
出産のときに、旦那さんが桟俵を頭にかぶる地方もあり、これは、異界からこの世へ、ものをもらうという意味があると辞典には書いてありました。桟俵が人と神、異界とこの世を媒介する用具であることがよく分かりますが、その桟俵がヤマハゲの面として使われているのは、非常に面白い、興味深い事例だと思っています。
伊藤先生が岡本太郎の話もされると思いますが、岡本太郎も『日本再発見、芸術風土記』という本の中で、ナマハゲはそもそも鬼なのかどうかという問題があるといっています。それは、あらゆる原始的な人間社会に見られる霊の現れである、と。岡本は、どこまで調べていっているかは分からないですが、彼はマルセル・モースの門下生で、人類学や民俗学に造詣が深い人でした。直感的に、秋田の来訪神行事が、鬼ではないと、本の中で触れています。それは、そういうことだと思います。
こうやって、桟俵を面にしたヤマハゲが、子どものいる家を回っておどかすわけです。これは今回のイベントのポスターに使われた写真ですが、子どもは本当に怖いし、大人でもぎょっとします。異質なものが部屋に入ってきて、稲藁をまき散らして帰っていきますから、本当に別のものが日常に入り込んで、帰っていったみたいなことがビジュアル的に突き刺さってくる。そうした彼岸と此岸の境目というか、現実と幻の境目のような異界が立ち現れるのが来訪神行事だと僕は思っています。家をまわり終えると、最終的にこのヤマハゲの仮面は神社の境内にある木に結び付けられます。
昨日のアマハゲも同じでした。まとっていた稲藁を最後に神社の境内の林の中に結び付け、その1年、ずっとそのままにしておくんです。1年後、この稲藁の残りで、男性の石と女性の石を結える縄を作っていました。桟俵だったり、番楽だったり、木の根っこを使ったお面だったり、昔から受け継がれているお面だったり、それぞれの地区ですごく特徴のある行事だなと思います。これで、まれびとの話はおしまいです。
●奥能登半島
奥能登の話を少ししたいと思います。奥能登には3年ほど通って、『奥能登半島』(青土社)という写真集を作りました。2021年の年末の刊行です。秋田の男鹿半島と石川の能登半島、そして、その間にある新潟の佐渡はつながっている部分がいろいろな側面から感じられます。折口信夫も、そのように言っていました。
島とか半島をライフワークとして巡るようになったのは、伊藤先生の授業がきっかけでした。大学院の授業で学ぶより以前から島々を巡ってはいましたが、自分の直感を明確にしていただいたのが、伊藤先生の授業だったと思います。
島というのは四方を海に囲まれたものですけど、半島というのは三方を海に囲まれています。陸の視点でいえばどん詰まり、行き止まりなのですが、海の視点で見ると入り口になっていて、ネットワークの起点になっている。そういう話を伊藤先生の授業で教わって、背中を押されるような形で、今も島と半島でフィールドワークを続けています。
今年は島根半島や伊勢志摩半島を巡って写真を撮りました。能登半島は2021年まで5年ほど撮影しました。皆さんもよくご存じだと思いますが、これは環日本海の東アジア諸国の、逆さ地図です。これは富山県が制作した地図で、富山県庁で購入できます。
ここで見ると、能登半島が日本海の真ん中に突き出ていて、男鹿半島があって、佐渡があって、島根半島もあって、山形の飛島、新潟の粟島もあります。日本海側に先ほどの来訪神行事が集まっていますね。こう見ると、日本海が湖のように、一つのサークルになっていることが分かりますし、オホーツク海があって、さらにベーリング海のほうに、北方世界につながっていくさま分かると思います。南の東シナ海もまた、一つの弧を描いてここにありますね。
●珠洲市
能登半島の珠洲市というところに特に僕は長く通ってきました。昔は日本海の豊かさを象徴するような場所でした。今は人口が1万4000人くらいだったかな。昔は5万人、3万8000人いたのが、今は3分の1程度で、北海道に珠洲よりも人口の少ない市がありますが、珠洲市は日本列島の本州では一番小さい市です。
砂浜がほとんどなく、崖に覆われていて、最果てといわれているけども、海からの視点で見ると非常に豊かな場所です。北前船の寄港地になっています。いくつかの海流がぶつかり、東と西の植生が重なっていて、この海流のおかげで、海の幸が豊かです。山が海の直前まできて落ちている地形で、里山と里海が一体になっている場所です。
いまでは陸地に交通網が移り、のと里山街道という一本の道路でつながっていますが、そこが地震で壊れてしまうと、何もできなくなる、動けなくなってしまう。でも、本当は、一にも海、二にも海の場所だった。海から自由にアクセスができた場所も、陸地に交通網が偏ってしまったが故に、今回の地震では非常にアクセスが悪くなってしまったんですね。
珠洲市の宝湯という温泉銭湯に、僕はずっと通ってきました。地震で全壊してしまったんですけれど。明治時代から続く温泉銭湯で、建物が遊郭や芝居小屋、劇場としても機能していた時代があった。増築に増築を重ね、香港の九龍城のような建物で、さらに非常にDIY感に溢れた素晴らしい建築でした。でも、それも地震で全壊してしまった。(※別館の、宿泊・貸切温泉・酒屋さんのほうは、建物だけはかろうじて無事でした。)
写真集『奥能登半島』では、飯田高校の高校生たちも撮影しました。この高校生たちは、学生生活の3年間のうち、何度も地震に見舞われ、コロナ禍にも振り回されている。茶道部や相撲部などの部活があって、ウエイトリフティング部の活動も盛んです。地震の後、飯田高校は避難所になって、震災当日は900人もの人が避難していたと聞きました。
●あえのこと
「あえのこと」という行事があります。来訪神行事だと僕は思っています。来訪神行事を説明するときに、いつも仮面や異形の神ということを自分は話してきましたが、「あえのこと」は、目に見えない来訪神を歓待する行事です。目には見えないけど、座布団を敷いて、お膳を置いて来訪神を歓待する。これも長い歴史があります。見えない神様をお風呂にまで入れるわけです。人を招き入れることの原型というのが、まれびと、来訪神の行事に表れていると僕は思います。
珠洲というのは、室町時代から農村のコミュニティーごとの結びつきが強く、一向一揆が盛んだったところです。安土桃山時代以降、加賀藩の前田家が、家来を各地に配置しましたが、奥能登だけは昔からの地域のまとまりがしっかり残っている。珠洲には、今も10の共同体があって、それぞれが公民館を持っています。
今後も地震が起きるだろうから引っ越したほうがいい、という人もいます。でもそれは単純なことじゃなく、珠洲の人たちは、さまざまなことがあってもずっと地元のコミュニティーを守り続けてきた。震災後もそうやってなんとか復興していってほしいと、僕は思っています。現在では高齢化が深刻化していますが、お祭りの時期になると若い人たちが集まってくる。お祭りや伝統行事がたくさん残っていて、秋田県とも似ています。
見附島には、大きな岩があって、その前に曳山が出てきて、キャラゲと呼ばれている、木やり歌を口ずさむ2人の子どもが出てきます。昨日にかほで見たアマハゲも中学生2人でしたが、このキャラゲと呼ばれる2人は化粧して女装をしていました。神の使いだとされています。来訪神と少し趣が異なり、なにかユーラシア大陸とのつながりを、僕は想起してしまいます。
真脇遺跡という縄文遺跡があり、そこから仮面や、足の踏み場がないほどのイルカの骨も見つかり、とても長い年月、縄文の人々が暮らしていた痕跡もあります。縄文の遺跡ですが人々が暮らして期間が非常に長い。それは、当時としてはとても珍しいことです。
奥能登は、秋田県とも日本海を介して密接につながっている場所です。それを頭の片隅に入れながら、震災後の珠洲、奥能登の様子を今後もずっと見つめ続けていきたいと思っています。伊藤先生にバトンを渡します。
Profile
石川直樹:
1977年東京都生まれ。東京芸術大学大学院美術研究科博士後期課程修了。人類学、民俗学などの領域に関心を持ち、辺境から都市まであらゆる場所を旅しながら、作品を発表し続けている。2008年『NEW DIMENSION』(赤々舎)、『POLAR』(リトルモア)により日本写真協会賞新人賞、講談社出版文化賞。2011年『CORONA』(青土社)により土門拳賞。2020年『EVEREST』(CCCメディアハウス)、『まれびと』(小学館)により日本写真協会賞作家賞を受賞した。著書に、開高健ノンフィクション賞を受賞した『最後の冒険家』(集英社)、『地上に星座をつくる』(新潮社)ほか多数。主な個展に『JAPONÉSIA』ジャパンハウス サンパウロ、オスカーニーマイヤー美術館(ブラジル/2020-2021)。『この星の光の地図を写す』水戸芸術館、新潟市美術館、市原湖畔美術館、高知県立美術館、北九州市立美術館、東京オペラシティアートギャラリー(2016-2019)。『K2』CHANEL NEXUS HALL(東京/2015)、『ARCHIPELAGO』沖縄県立美術館(沖縄/2010)など。作品は、東京都現代美術館、東京都写真美術館、横浜美術館、沖縄県立美術館等に収蔵。2024年10月4日、ヒマラヤ山脈にあるシシャパンマ 登頂に成功し、8000メートル峰14座全てを制覇した。
Profile
伊藤俊治:
1953年秋田県生まれ。東京大学文学部美術史学科卒業、同大学院人文科学研究科修士課程修了。東京藝術大学名誉教授。京都芸術大学大学院教授。専門の美術史・写真史の枠を越え、アートとサイエンス、テクノロジーが交差する視点から多角的な評論活動を行う。『ジオラマ論』でサントリー学芸賞を受賞。展覧会企画に「日本の知覚」(グラーツ)、「移動する聖地」(ICC)、「記憶/記録の漂流者たち」(東京都写真美術館)など。著書に『写真都市』、『トランス・シティファイル』、『生体廃虚論』、『電子美術論』、『バリ芸術をつくった男』、『増補 20世紀写真史』、『バウハウス百年百図譜』ほか多数。新刊『秋田 環日本海文明への扉』(写真:石川直樹)。
撮影(会場)|坂口聖英(アウトクロップ)
構成|熊谷新子(秋田市文化創造館)