クロストーク
「工芸と天災ーー能登半島輪島市の現状報告と、天災後に作家が何をできるか考える。」イベントレポート(後篇)
赤木明登(輪島塗)攝津広紀(川連塗)
佐藤祐輔(新政酒造)
石倉敏明(芸術人類学)田村一(陶芸)
日時:2024年3月4日(月)15:00 – 17:00
会場:秋田市文化創造館 2階 スタジオA1
主催:辺境地点 共催:秋田市文化創造館
●小さな木地屋さん再生プロジェクト
田村 このお酒は「農民藝術概論」です。どういったお酒ですか。
佐藤 秋田市の外れにある鵜養という、岩見三内のさらに奥の所にあるような農村でお米の無農薬栽培をやっていまして、そこのお米で造ったお酒です。そのお酒にはパンフレットが入っているんですよ。こんなふうに造りましたよという説明書です。そのパンフレットに、毎年、ご寄稿いただくのですが、今年は赤木さんにお願いいたしました。傑出した素晴らしい文章でした。ということで、今日はこの場にふさわしかろうと思い持って参りました。
田村 宮沢賢治に「農民芸術概論綱要」という芸術論がありますね。
佐藤 そうです。そしてこのお酒は宮沢賢治の愛したお米「陸羽132号」というクラシカルな品種で造られています。岩手の米ではなくて、秋田生まれの米なんです。
田村 無農薬を始めて何年になりますか?
佐藤 今年で7年目になります。
田村 鵜養でお米を作っていた古関弘さんという、もともと杜氏だった人がいるんですが、実家が湯沢で、漆を塗る家系で、彼が新政でお酒を造っていたということで、面白いなと思っております。今回の器は、自分の器をかき集めたものと、塗り物は攝津さんがお持ちくださいました。皆さま、杯をお持ちください。今回の地震でいろいろあったと思うのですが、亡くなられた方々や、今、復興に向けて頑張っている方たちに、僕らは何ができるのかということを考えながら、お酒を飲んだり、話を聞いて考えるというのは大事だと思うので、心を寄せていきましょう。いただきます、乾杯。
赤木 献杯。
田村 僕は2011年3月11日は益子にいました。益子の被害が報道されることはあまりなかったので、自分は益子の被害を外に知らせるということをひと月はやっていました。赤木さんはFacebookなどで、地震が起きる前から、日本の漆産業における危機感について発言をされていましたね。
赤木 さっきお話しましたように、輪島全体は本当に大変な状況ですが、僕自身は工房も自宅も無事なので大した被害ではないと思っています。僕自身は自力で再建できると思っているのですが、一番大変なのは高齢の職人さんたちです。輪島塗の素晴らしいところって共同の作業であることだと思います。陶芸も素晴らしいですが、田村君は1人でろくろをひねって、薬を掛けて、釜炊きをして、個人で完結できますよね。でも僕ら、漆の仕事は、一つの器をいろんな職人さんが順番に関わって一つの物ができていく。それは、工芸だけじゃなくて佐藤さんの酒造りも同じだと思いますが、そういうふうにいろんな人が関わって共同で作っていくものづくりが漆の魅力です。その一人一人の職人さんたちは零細で、お父ちゃんとお母ちゃんと2人だけでちっちゃい工場で仕事をしている。それから高齢化もしている。そういう人たちが今回の地震で住む所と仕事場を失っている。そういう人たちは声を上げないから静かにフェードアウトというか、何にも言わずに、支援も受けず、補助金も受けず、そのまま廃業していく。そういう人たちがすごく多いというのが今回の地震の現実で、それをほったらかしにしておくと輪島で培われてきた大切なものが消えてしまいます。僕は自分の所よりも、そういう職人さんたちの仕事を再建するのを助けていきたいので、「小さな木地屋さん再生プロジェクト」というのを始めました。木地師である池下満雄さんの工房が地震で倒壊してしまった、この池下さんの工房を再建しようというプロジェクトです。昭和の初めぐらいに電気が来て、電動ろくろが設置された頃の状態が保たれていました。僕、輪島で一番、美しい場所じゃないかなと思っていて。雰囲気もたたずまいも、きれいで美しい場所だった。輪島朝市の一帯の近く、観音町にあります。
攝津 川連でも木地師さんが苦しい状況にあります。荒型屋さん、荒挽き屋さん、原材料屋さんというのはどういう状況ですか。
赤木 市場で丸太の状態のケヤキを買ってきて、そこから木地師さんがろくろでお椀をひくための材料、木の塊を取り出す専門の職人さんを荒型師といいます。輪島市内の荒型師は山下さんという方一人になっていて、大きな被害を受けています。木地師の池下満雄さんの工房の再建の話をこれからさせていただきますが、その次は山下さんの再建に取り組もうと思っているんです。実は山下さん、心が折れてしまって、「やめて金沢に行く」とおっしゃっているので、僕が説得して、輪島にとどまって荒型を続けていただくようにしたいなと思っているところです。
田村 「民族文化映像研究所」という民間の習俗や祭を撮影してアーカイブしている団体に、「奥会津の木地師」というフィルムがありますね。
赤木 池下さんは今86歳で、輪島で現役最高齢の木地師です。池下さんは15歳で職人になって、86歳ですから71年、ずっと職人をやっているんです。分かっているだけで、代々、江戸時代からこの仕事をしています。この池下さんが使っている材料が写真のもので、池下さんのおじいさんが若い頃に買った材料です。これは明治の終わり頃だから今から100年前の材料で、その「会津の木地師」に出てくるように、本当に山で木を切り倒して、なたとちょうなで、はつって作った材料です。その材料を、蔵の中で寝かせて、孫の池下さんが今使っているんです。そのサイクルが途切れようとしていて。途切れるのは仕方ないんですが、僕はそれを使わせていただき物が作れている。だから池下さんと池下さんの先祖に僕はすごく恩があって、池下さんには、僕は100歳まで仕事をしてほしいとお願いしていますが、それをこれから少しでも持続させたいな思っています。これは池下さんの工房です。
1月6日に初めて池下さんの所を訪ねたときに、90年前の建物が隣の蔵に寄りかかってぎりぎり建っていたので、これを一番最初に再建したいなと、「小さな木地師さん再建プロジェクト」を始めました。材料は雨に濡れると使えなくなるので、まず材料を運び出して安全な所に避難させるところから始めました。輪島の建築家や工務店や大工さんはほとんど自分の家も壊れているので、手いっぱいなので、僕の出身地である岡山から建築家と大工さんを呼んで、この建物を再建できないかという相談をしたのが1月29日です。
2月5日には現場の大工さんに来てもらって再建方法を検討しました。2月19日、検討が終わって建て直す方針が決まり、岡山から建築家と大工さんのチームがやってきた。
赤木 もともとこの建物には6台のろくろがあって職人さんも6人いたんです。全盛期はそうでしたが、池下さん、86歳で1人だけ残って仕事をするような状態になっています。2台残したのはどういうことかというと、この工房を再建するだけではなくて、後継者をつくって池下さんの技術を伝承させたいと思っているんです。僕の工房の若い職人に木地を習わせたいと思っています。そのためにろくろを2台残してあります。
田村 据え付けのろくろなんですね。陶芸のろくろとは違います。
赤木 池下さんは地震の直後、自分の工房の前に座り込んで丸2日間、動かなかったそうです。命に別条はありませんでしたが、意識を失って救急搬送されたそうです。避難先でも仕事のことしか考えてないんです。心の強い人で、僕が再建をしているということを喜んでくれていて、毎日、仕事の段取りをどうするかというのを頭の中で考えている。一日も早く戻って仕事をしたいというので、一日でも早く再建をして、3月20日頃に建物ができる予定なので、そうしたら池下さんに戻ってきてもらいます。このプロジェクトに関しては、建物を引き起こして、耐震化して復元、再生するのに約800万円の費用がかかっています。それを僕がSNSを通じて呼び掛けて、既に800万円を超える金額が集まっています。本当にありがたいことなのですが、それが済んだら今度は、先ほどお話した荒型を作る山下さんを説得して、工房を再建して仕事を続けてもらいたいなと思っています。
●物を作るための道具を作る人がいない
田村 漆は分業制ですが、酒造りも同じですね。
佐藤 今、私も木桶の工房を造っています。5月に竣工式をやるんです。でも木桶の工房をやるといったときに一番問題だったのが、木桶を作る道具がないこと。物を作るのはいいけれど、それを作るための道具を作る人がいなくなっていて、結局、木桶は作れませんよという話になる。壊れたらどうしようというような道具がたくさんあって、それをかき集めるのが一番難しかった。
田村 集まりましたか?
佐藤 何とかぎりぎり集まりました。木桶を作る技術はあるけど、木桶を作るための道具を作る技術まで必要ということになり、どこまでさかのぼればいいのって。考えが甘かったけれど、実際そういう状況です。
赤木 それは伝統的な仕事が全て抱えている問題で。なぜ木地師さんを支えようかと思ったかというと、例えば木地、下地、上塗り、加飾という工程があって、なぜか、ベースになる最初のほうの仕事の職人さんが現実問題として社会的地位が低いんです。賃金も安い。だから子どもに後を継がせないし、後継者もいない。本当だったら基礎になる職人さんの厚い層があって、その上に上塗り師さんや蒔絵師さんがいるのが理想的だと思うけれど、基礎になる部分の人たちがどんどんいなくなっている。輪島も、地震の前から既に逆三角形になっていて、いつ、それが壊れてひっくり返るか分からない状況でした。それが地震でとどめを刺された感じです。でもなくすわけにはいかないので、僕は木地の職人さんを残そうと。でも実はその前に荒型さんもいるし、刃物屋さんもいるんです。ろくろを2台残しましたが、そのろくろを修理できる職人さんが仙台にしかいないんですよ。仙台から来ていただく。ある意味一番大事な産業である伝統的な職人がたくさんいるのが日本のいいところでしたが、その土台がもう、ガタガタになっています。そこを本当に何とかしないと、伝統や、職人仕事が失われていく。酒造りも、桶作りも同じで。蒔絵だって、道具とか筆がなくなってきている。
田村 美大で、そういう取り組みはやられていますか、石倉さん。
石倉 秋田公立美大では、ある道具や作品を作るときにどんなプロセスが必要なのかということを教えています。例えば「ものづくりデザイン専攻」という専攻では、複数の素材に触れながら造形のプロセスを実体験してみるというカリキュラムや、秋田の職人たちの工房で仕事ぶりを観察するフィールドワークの授業があります。
なぜ自然界の物質や素材の探求が必要かといえば、自然界に生きるどんな生物が、どんなふうに素材として加工されて文化の中に位置付けられていくのか、という連続性が大切だからです。一つの器がどのような植物、どういう生き物なのかというプロセスをたどっていかないと、最終段階が見えないわけですよね。さきほど木地の話もありましたけど、そもそも植林や伐採、製材を行う林業の仕事があり、荒型師や木地師がいて、最後、漆を塗るところまで連綿と自然と文化がつながっている。そのことを知識というより、感覚でつかむ導入が必要です。
職人たちは、猟師や木こりと同じように動植物の命を扱い、個体の死を超えて活かしていく職業です。人間ならざるものの生命を扱うわけですから、素材を加工することは非常に危険だし、ある意味では普通ではない力に触れるということを意味していました。ですから、社会的な地位が低いとされてきた職人たちも、別の見方をすれば他の人びとよりも神に近いという考え方が中世にはあったようです。ところが、そうした生命の感覚や神聖さの観念が薄れ、工芸が単なる安価な労力として形骸化したときに、賃金が安く、厳しい状況で働き続けなければいけないブラックな仕事であるかのように誤解してしまう。これは、実は全てを合理化して利益を上げようとする近代産業社会の病なのです。
自然と文化の連続性を再建するためには、私たちが持っている自然観そのものを見直していかなければならない。今、民芸ブームとか生活工芸ブームで赤木さんの作品を使ってらっしゃるユーザーの方は、感覚的に自然とか工芸的なものに触れたいという感覚が強い方々だと思います。だから災害が起こったときに、いかに具体的に復興のプロセスに参加できるかということが、求められているのだと感じています。
赤木 レヴィ=ストロースが1979年に輪島に文化人類学の調査に来て、そのときのことをまとめた本が『月の裏側』という本になっていますが、その本の中でレヴィ=ストロースは日本の職人社会を見た感想を述べています。西洋人にとって労働は罪を犯した罰として神から与えられた苦しみだけれど、日本の職人の世界を見て驚いたのは、日本の職人にとって仕事をするということは神様と触れることだという記述があるんですね。すごく鋭い指摘だと思います。それが日本の職人仕事の中でずっと継続してきたのが、本当に失われようとしているぎりぎりのところではないかと思います。
石倉 そのことは、災害をどう受け止めるかということにも関係しているはずです。人間に労働を課したという一神教の超越的な神も、日本の職人たちが親しく触れている自然界の中に活きている神も、どちらも生活の背後にあるリアリティそのものです。職人にとって、神は幸福や恵みを与えてくれるだけでなく、地震を起こしたり、津波を起こしたりする存在でもあります。だからかつては職人さんたちほど、災害の本質に触れている人たちはいなかった。
彼らが荒々しい自然の原理に触れ、生々しい生命に触れているということ。野生的な自然に触れているということ。それを単に飼いならすだけではなくて、うまく調停しながら、人間がここまではやっていいよ、というギリギリのバランスをつくっていくことだと思うんです。そう考えると今、僕たちの暮らしている近代化された社会で、何でも3Dプリンターで作れるかのような、頭で描いたものがそのまま作れてしまうような状況は、そうしたバランスを作り出す知恵を忘れた、ある意味ではとても危険な社会だということになります。
3Dプリンターでなんでも簡単に制作できる状況というのは重要な社会の変化だし、技術革新なのですが、そのいいところだけを見ていると、実際に災害が起こったときに大事なものが失われてしまう。とはいえ、赤木さんがやっているようなSNSを通じて2カ月で数百万円を集めることは東日本大震災のときですらできなかったかもしれない。それが今できるようになったということは、社会的な技術革新の、あるいは情報革新の恩恵であると思います。そこにどうやって、ものづくりや工芸文化の古い知恵を再接続させていくのか、ということが問われています。
●ものづくりへの敬虔な気持ち
田村 僕も1回だけ蔵に入ってお酒を造ったことがありますが、ぷくぷくしているのを見ると本当に生き物だという実感がありました。不思議だけども、その後ろには今石倉さんがおっしゃったようなリアリティを感じるというのはありました。ろくろでも、ひょっこり器ができてくるときがあるんですね。そういうときはやはり背後にある自然を感じながら自分は作っているなと思いました。祐輔さんは、お酒を造るとき、どうですか?
佐藤 うちの蔵は入ると酒蔵なのか神社なのか分からないくらいです。注連縄も至る所に張っています。もう何年もお酒造りをやっていますが、えたいの知れないことがたくさん起こるので。
発酵産業というのは、麹菌、お米にカビを生やして、お米を溶かして、出てきた糖分を酵母に食べていただいて。僕らがやっていることではなくて、僕らは微生物飼育係のようなもので、僕らの思いどおりにならないことがたくさんあります。なので、信心深くなってしまうというか、敬虔な気持ちがないとできないです。必ずうまくいくわけではないけれど、それを受け入れられなければやっていかれない。木の桶を使っていると味はばらばらになるし、ちょっとしたミスで酒が腐ったりするんですよ。でもそういうのを含めていいお酒もできてくるというか、予想できないファクターを全部切り取ってしまったら、自分が酒造りを面白く思えないだろうなと。アルコール飲料でも、日本酒だからやっているところがあって、その魅力は、自然と触れ合っているというダイレクトな感覚です。そこが、自分が酒造りをずっとやっていても飽きなくて、一日中蔵に張り付いていてもなおかつ面白いと思えるポイントだと思います。
田村 祐輔さんは古い文献を読んで、現代の酒造りにそこから得た知識を活用しようとしている節がありますね。漆の長い歴史や文化人類学的な知性にも接続しているなと思います。
佐藤 日用品の安い器でも事足りるのですが、でも人間それだけではやっていかれない。面白くないですし。飲み物にもいろいろあると思いますが、漆や工芸的な器に惹かれる気持ちと、僕が日本酒に恋い焦がれる気持ちは近いと思います。日本酒と漆は、やっぱり近いです。うちの蔵では、去年、全部木桶仕込みになりました。木の桶でしか酒を造らない蔵です。それは日本で一つしかないです。でも一つだけ、中に漆を塗りたいと思ったんですよ。木の香り、私は大好きです。私は酒に木の香りが付くのがすごく好きなんだけど、中には、控えめにしたいという蔵もあるから、将来、そういうオーダーも必ずある。木の香りはあまり好きじゃないけど木桶は欲しいという場合、中に漆を塗るわけです。外側に塗りたい人もいるし、中に塗りたい人もいる。いろいろなパターンがあると思います。それで、うちも、木桶を作って酒造りするとき、少し木の香りを抑えたようなスタイルの酒を造る場合と、それを同業者に販売する場合を考えて、赤木さんに相談したんです。「どういうふうに塗ったらいいですか」と。事細かく教えてくださって。実際、塗ってくれたのは川連の方です。
赤木 うまくいったんですか。
佐藤 うまくいきました。漆の選定から何もかも、赤木さんが「こうしたほうがいいよ」と。
石倉 そのお話を聞いていると、漆や酒造りの知識が、かつての最先端科学だったことを思い出します。
佐藤 そうだと思います。なぜかそれとタイミングを一にして、漆を専攻でやっていた女の子が「入社したい」と言ってきて。それで今、入社してインターンで働いていますが、美大の学生なんですよ。
赤木 漆業界、人が足りないので、その子に漆をやろうよと言ってください。
佐藤 うちで木桶に漆を塗ればいいんじゃないかな。
田村 まず赤木工房に行って修行ですね。
佐藤 先ほど赤木さんから聞きましたが、今、漆の世界に入ってくる女性の方が多いそうですね。
田村 能登の蔵にも女の杜氏さんがいらっしゃって。陶芸も女の人が増えてきています。
佐藤 なぜでしょうね。実際に働いていて、女性のほうが微生物を扱うセンスがいいと感じることがあります。
石倉 クロード・レヴィ=ストロースが1970年代に輪島や五箇山を調査したとき、日本の伝統的な家族経営にとてもフレキシブルな可能性があることを発見していました。例えば最小単位の工房で、血縁関係のない弟子が師匠のことを「お父さん」と呼んでいる。赤木さんの本にも出てきますが、このように日本の職人制度を支える家族とは、同じ食べ物を食べ、同じ制作の過程を共有しているということで、直接の血縁によるものだけではなかったのです。古い職人の世界には、実は養子縁組や弟子入りのシステムが開かれていて、血がつながっていなくても実の子どものように関係を構築できていた。そこでレヴィ=ストロースは、労働が苦役ではなくて、生きがいや喜びだという思想に出会います。宮沢賢治が『農民芸術概論』で言っていることと全く一緒です。「芸術をもってあの灰色の労働を燃せ」と。食事や物資といったモノ(サブスタンス)の流れを共有し、共に生きることが、仕事と遊びの断絶を超えて、喜びが労働に流れ込んでいく大元にあるんだという考え方があったと思います。
田村 赤木さんはどうですか。
赤木 先ほどから「農民藝術概論」を試飲させていただいていますが、だいぶ酔っ払ってきて。ライナーノートには、新政のお酒には神様がいるという話を書かせていただきました。でも神様というのはどこかの宗教団体の神様ではないと思っています。
僕は漆というものをずっと触っていますが、漆のことがさっぱり分からなくて。漆のことで分かるのは表面だけで、その向こうに分からないものがあるんです。その全体を何かで呼ぶなら神様かなというような感じです。さきほど木地師の池下さんの話をしましたけど、池下さんと一緒に仕事をすることで僕はすごくいいものが作れていて。それは池下さんが代々培ってきた血の中に、いいお椀の形が流れているんですね。それを僕はたまたま利用させてもらって作れているから、僕の力では全然ないところがすごくいいんです。だから池下さんの仕事場が倒壊したら僕はそれを再建する手助けをしているけれど、池下さんだけではなくて、池下さんのおじいちゃんとか、10代前ぐらいの職人さんと実は一緒に仕事をしているんですね。そういう人のつながりで工芸は成り立っていて、その向こうにさっき言った、たまたま神という呼び名になりましたが、そういうものと接続をしているのと、あと重要なのは、人と人のつながりで工芸がつくられているということが、こういう災害が起きると浮き彫りになってくるんですね。みんなが助け合ってものづくりをしたり、それから再建のために働いていたりということがさらに浮かび上がってきて、そこが人間の素晴らしさだし、工芸というものが今までずっと培ってきた、工芸だけではなくてお酒造りとか、大工さんの仕事とか、左官屋さんの仕事の中にそれがずっと流れてきたというところがすごく重要で。こういう災害があったときに、それが人々を救っていけるというようなことが、今回の地震の経験の中で僕が体験したことです。
●天災で浮かび上がる人と人のつながり
田村 益子焼の濱田庄司のお孫さんの濱田琢司さんという関西学院大学の先生の論文を読みました。柳田國男を引いて、「涙なくしては想起できぬ歴史であったが、より良き将来を期すべく人々がこの機会を利用したのであった」と、柳田は関東大震災について書いていると。今、赤木さんがおっしゃったように、そういう地震などの天災が人と人とのつながりを浮き彫りにするということと、この柳田の言葉はリンクしているなと思います。俺、本当は、益子を嫌いだったんですよ。でも東日本大震災の後、お礼奉公しないといけないと自分で気持ちを変えて。喧嘩をしたこともありましたが、益子のために働きたいと思いました。今の自分の作り方や、益子への思い、地震や何か災害が起きたときに対する自分の態度にすごく影響を与えていると思います。
赤木 先日、東京で、和紙の仕事をしているハタノワタルさんとトークをしました。ハタノさんはコウゾ栽培から和紙作りまで一通りご自分でやられているんですね。そのプロセスの中で、例えば社会的なハンディキャップを負った人たちが仕事をするところもあるし、年を取ったおじいちゃんの職人さんも仕事ができると。そういういろんな人たちが関わって助け合えるのが工芸だという話をハタノさんはしていて、なるほどと思いました。
田村 赤木さんが先ほど「田村君は一人で仕事ができる」というような話をされていましたが、僕はここ5年くらい、考え方が変わってきていて、天然の素材を使うようになりました。今まではケミカルな材料で釉薬を作っていたんだけれども、オーガニックな材料にも興味を持つようになり、もみ殻や薪ストーブの灰などを使って釉薬を作るようになりました。それは自分の中で大きな変化なんだけれど、そのきっかけになったのが鵜養の新政の田んぼです。種播きや田植えを少しだけ手伝ったら、自分がやったものだからすごく気になって、自転車に乗って見に行っちゃうんですよ。ままならぬものたちが育っていくのを見ていると、ひょっとして釉薬になるかなと。陶芸も、その辺の粘土を掘って、いろりで灰が出て、お米からもみ殻が出て、それを全部合わせて釉薬にして、焼いてという作業がずっと、何千年単位で続いてきたんだなと思うようになったら、自分もその末席に加えてもらえるような気がして、面白かったんです。もらう先々の灰によって色が違うし、思いどおりにならないことも増えてきているんだけども、それに対して自分がどう振る舞うのか、試されている感じがしています。ここ5、6年、作家として心の変化がすごくあって、それを楽しんでる段階なんですけども。新政との関わりや、石倉さんとの話し合いだったり。そういうことで自分が変わってきているなというのは、秋田に帰ってきた意味があるなとあらためて思っています。今回の地震も、能登と、関わる人たちの、関係性の変化が出てくるのではないのかと自分は思っているので、これからも能登に実際に行ってみたり、遠くからでも見守っていく姿勢ができたらなと思っています。新政も、災害の際の支援の動きがいつも速いなと思っています。やっぱりスピード感って大事ですよね。
佐藤 チャリティーについて。お酒は体に悪いこともある、そう思っています。それに全員が飲めるわけでもない。子どもは飲めないですし、お酒を先天的に飲めない方もいます。例えば地震に遭うと補助金をいただいたり、そういう意味では一部の人しか楽しめない飲み物なのに、日本酒は特に暖かいまなざしで見てもらっていると思っています。初搾りになると、テレビ局が来てくれて、ありがたいなと思っています。だから何かあった時にはできるだけ還元しないといけないと思っています。災害があったらネパールだろうが台湾だろうが、売り上げから拠出させていただくことにしています。例えば1000円を出すとしたら、お客さんと酒販店と私の蔵で分け合って出すほうが、皆で活動してる気持ちになれると思うので。3000円の酒だったら1本当たり1000円を出すとか、そんな感じです。でもいつも数百万円にはなるので、これからもやり続けます。でもあまり災害はないほうがいいですね。
田村 明日はわが身ではないですが、7月の雨で僕も山崩れで家に帰れなくなって。
佐藤 地方だとインフラが壊れてもすぐ修復ができないじゃないですか。鵜養の田んぼに行く道が陥没したまま通れなくなっているわけです。迂回ルートを通って行かなくてはならないんだけど、もしまた今年大雨があって、迂回ルートまで陥没したらどうするんだろうと。行けなくなってしまうことが怖いです。残したい場所だと思い、鵜養で田んぼをやっていますが、行き着くことができなくなるんじゃないかという恐れがあって。
田村 今、太平山も登山道まで行けないから。
佐藤 山頂まで行けないわけでしょう。
田村 行けない。
佐藤 つぶれていますね。どうするんだろう。
石倉 赤木さんが今、金沢に仮の工房をつくっているのは、すごく大切なことだと思うんです。つまりある場所が使えなくなったり、ルートが途切れたときに、仮設的に他の場所でできるようにしておくこと。あるいは、何か関係を補修できる方法と場所があるということです。それが、のちの復興と再興に結びついていきます。
実は、今から100年前の関東大震災の後に、同じようなことが起きました。重要なのは、そのときに民芸運動が起こったということですよね。濱田庄司は震災のときにはイギリスにいたんだけれども、日本に戻ってきてからしばらく益子には戻れなかった。そこで京都に一時的に避難することになって、河井寬次郎と柳宗悦を引き合わせます。そこから、その3人がコアになり民芸運動が始まったのが100年前の出来事です。
田村 益子の歴史もそこから始まったようなものです。
石倉 それから、復興の運動を支えたのが速いペースで全国に普及していった鉄道です。「民藝」という言葉も、移動中の汽車の中での柳たちの会話から生まれました。赤木さんは『二十一世紀民藝』という本を書かれ、この度『工藝とは何か』も刊行されましたが、たぶんいま新しい民藝運動をやられているんじゃないでしょうか。赤木さんの本を読むと、漆にかぶれた最初の時期の体験を書かれています。中でも印象的だったのが、漆にかぶれながら、徐々に漆に対して免疫を獲得して身体が変わっていく様子でした。
実は民藝のような工芸運動にとって社会的なつながりを表す「コミュニティ(共同体)」と同じくらい重要な原理として、「イミュニティ(免疫体)」という概念があります。イタリアの哲学者ロベルト・エスポジトの概念ですが、閉鎖的な「コミュニティ(共同体)」を抜け出して移動する移民や難民たちが、新しい「イミュニティ(免疫体)」をもたらして社会を更新させる。同じように、人間の外部にある野生的な自然に触れることで、はじめて免疫が獲得できます。自然の素材に触れるということは天災に触れることと同意で、だからこそ次に私たち自身が変わっていかなきゃいけないことなのかなと思います。
赤木 100年前に民藝運動が起きて、でもその民藝が100年たった今もちゃんと理解されないまま現在に至っていると思うんですよね。その理解されない部分というのが、先ほど話した、仮に「神」というふうに言った何かだと思うんです。そこが100年たってようやくもう一回地表に出てきて、今露わになっている。例えば佐藤祐輔さんは新政を日本酒を変えました。新しいことなんだけど、実はめちゃくちゃ伝統的で古典的な仕事をされている。本質的な精神性、神とつながるみたいなことをお酒の世界に取り戻しているし、工芸も今、そういう時代になって、柳が孤独のなかで本当に目指したことが甦ってきているという状況で。今は世の中の変わり目で、ある意味、とても面白いことになってきていると思います。4000年に1度の地殻変動で大きな災害ですけれど、でもそれはチャンスに切り替えられると思うんですね。
攝津 川連に限らずですが、「伝統」は、僕には自然と退化していくイメージがあるんです。常にバージョンアップして、進化して、変えていかないと駄目なんじゃないかと。あるときによそ者や、若者や馬鹿者が変える場合がある。関東大震災や今回の地震などの天災が、幸か不幸か、一つのきっかけとなり、バージョンアップとか、新たな人とのつながり、技術の革新を生み出し、考え方の更新になるといいなと思います。
田村 ありがとうございます。さて、そろそろ5時になりまして、終わりを迎えるのですが、大切なことを言うのを忘れていました。今回の入場料は全部、今回の地震に対する寄付に充てたいと思います。壺を回しますので、皆さん、お志を入れていただければと思います。今、ぐるっと回しますので。そして皆さんからのご質問を受け付けます。
【質疑応答】
Q 僕は秋田公立美術大学で漆を専攻しているタイラと申します。赤木さんと攝津さん、お二方に質問ですが、今の若い人たちは漆、漆器の魅力を知らずに、もっと安いお皿を使えばいいだろうという人は多いと思いますが、そういった若い人たちに漆工芸の魅力を伝えるにはどういったことができると思いますか。
田村 陶芸家の立場から一言、言わせてもらっていいですか。使ってもらうことが一番いいと思います。自分、漆のお碗でお味噌汁を飲んだときに、それまで陶器やプラスチックのお碗でお味噌汁を飲んでいた自分を恥じるぐらいに美味しいってまじで思ったんですよ。だから器だったら絶対に使ってもらうことが一番だと思います。日本酒の杯も、杯によって味って本当に変わるんですよ。使ってもらうことが一番だと自分は思います。
攝津 やっぱり使っていただいて質感の魅力を感じてもらいたいというのは第一にあると思います。興味がない人はどこまでも興味がないという現実的なところもあって。川連で親がそういう職業に関わっていた息子さんやお孫さんも、漆器でなくても十分という人も中にはいます。どれだけいいものだって言っても、伝えても。興味ある人にまず確実に使ってもらうこと、それを子どもにも伝えていただくとか、そういうところから始めるしか思いつかないです。自分は今の生活にも合うようなものを作っていきたいなと思います。入り口としては、ちょっとしたぐい呑みでも、お皿でも、箸でも、使ってもらう機会を増やしていきたいと思っています。
赤木 今、漆を学ばれているんですね。その漆を選んだ理由は何ですか。
タイラ 最初は、ささいな理由というか、漆器ってかっこいいなっていうところから入って、そこから漆に触れていくにつれて、歴史だとか、実際、自分が使ってみた感じで。今、僕3年生で、来年度から4年生で卒業制作も始まるんですけども、そこでもやっぱり漆を学んだ成果を出していこうかなと思っています。
赤木 漆を人に伝える一番いい方法は、自分が漆を好きな理由を人に伝えることだと思います。卒業後はどうされますか。
タイラ まだ詳しくは決めてないんですけど、やっぱり漆を学んでいるので、将来、漆を使用している企業や、工房への弟子入りも検討をしています。
田村 作家になりたいの?
タイラ まだそこまでは考えていないです。
赤木 今、大学の工芸科を出て、いきなり作家になっちゃう人が多いですが、なかなか食えるようにならないです。学校教育というのは非常に重要なんですけれど、工芸の場合、大学を出てもなぜ食えないかっていうと、たくさんの数をこなすことができないからなんですね。学校に行くと、丁寧に、1年間に数点から10点のものを作っていきますが、そういうスピード感で作っていくのと、実際に職人さんたちが食っていくためにたくさんの数をこなして食っていくのとだと技術のレベルが全然違うんですね。数をこなすことができないと、結局、職人として成立しないし、生活もできないので作家にもなれなくて、そのうち消えていなくなっていくんですね。だから大学を出た後に弟子入りをして、職人としてきちんと食える技術を身に付けて、それから世の中に出ていくことをお勧めします。ちなみに僕の工房では男性の弟子を常に募集しています。正社員として雇用することにしたので。
タイラ ありがとうございました。
Q 秋田公立美術大学のアオキと申します。助手をやっています。今回、地震が起こったことによって、能登のほとんどの人が避難で出ていく形になっているかと思います。その人たちがしっかりとまた戻ってこられるようにするのは、みんなのやるべきことなのかなと思っていて。先ほどから赤木さんがリクルートされているのも、大事な一つの行動なのかなと思って聞いています。基本的に今回、インフラがだいぶやられてしまって、都会であれば100メートルの道路をたくさんの人数で直せると思うんですけど、能登になると100メートル直すのに一人? 二人? ひょっとしたらもっと少ない人数で100メートルの道路を直す資金を出さないといけないとかいろいろ考えると、都会よりも田舎のほうが復興にかかる時間が長くなってしまう。僕ら、ものづくりをやっている人間として、どういうことがこういう震災の後できるのかなというのを悩みました。自分の七尾のスタジオもだいぶ被災してしまったんですけど、すぐに現地に入ったときも何をすることもできなくて、とりあえずは隣の人に声を掛けるくらいしかできませんでした。僕らのできることって何ですかというところをあらためてうかがえますでしょうか。
田村 待つことも必要だと思います。東日本大震災の直後、ある仕事仲間は、自分の窯も壊れて家もぐちゃぐちゃなんですよ。でも彼は「東北が大変だから」「自分はボランティアに行かなきゃいけない」「助けなきゃ」って言って行こうとしていたんですね。でも彼は、自分から見ると仕事をできる状況じゃない。だから「君は待って、自分をまず助けないと。それからじゃないと助けに行った人も迷惑になるよ」というふうに伝えて。なので取りあえず、まず自分を助けよう。その後に本当に困った人がいるんだから、その人たちを助けようと彼には伝えたんです。理解はしてくれなかったですけど。今回の地震も長く、2年、3年、4年とかかる災害です。だから今は自分のことをやる。待つ。自分ができそうになったタイミングでやれることをやる。例えば先ほど佐藤祐輔さんが話したように、お金でもできる。新政のお酒を買って飲む。そしたら新政経由で被災地にお金が入る。それも立派な支援です。今回、こういう会を設けたのも自分はそういう思いがあって。自分はいま現地には入れないから、赤木さんが秋田にいらっしゃるなら会をやろう。君はここに来てくれたから、それだけで支援の一つになっていると思います。自分が動くことももちろん大事なんだけれど、待つことも選択の一つに入れてもいいんじゃないかなと思います。
赤木 石を拾うことが大事だと思います。うちのレストランの「杣径」で使っていた白磁の黒田泰蔵さんは、先ほどから話に出ている益子の濱田庄司さんのお弟子さんの、島岡達三の弟子です。黒田さんは高校を中退してヨーロッパに行って、まだ何にもなっていない若者だったんですけど、パリでギャルソンをしながら自分を救ってくれる運命の人を待っているんです。そこに、かっぷくのいい日本人が入ってきて、その人が入ってきた瞬間にこの人が運命の人だと気が付くんですね。それで島岡達三に声をかけて陶芸の道へ進んでいくんですけど。きょう、その運命の人とアオキさん、出会ったかもしれませんね。というわけで、もし興味があったら輪島に遊びにいらしてください。七尾で、ものづくりをされているんですか。
アオキ 自分の制作スタジオ兼倉庫が七尾にあります。隣の家に寄りかかっているのでとり壊すという話になっています。髪を切ってもらう美容師さんが珠洲出身で、ちょうど正月は帰っていて、倒壊した家の中にいたんです。その美容師さんは、うちがこんな状態やからやばいって、すぐに鵜飼の親戚のところに電話して、「おまえんとこ大丈夫か」って。その美容師さんの親戚は鵜飼に住んでいて、鵜飼は津波が来るというので逃げていると聞いて。でも大丈夫ってなって。いろんなところに電話してみんなが大丈夫って分かった後に、俺ら埋まっているから助けてくれっていう感じで。すごく明るくて。でも結局、いまだに現地に行って片付けをしている状況で、復興が進んでいないというのが現地に入っているボランティアの人もよく言っていて。その人は熊本や東日本大震災のボランティアにも入った方ですけど、「ここまで復興のスピードが遅いのは考えられない」と。地理的問題があるのかなとは思いますが、全国の人に能登のいろいろな情報を知ってもらうのが大事なことだと思っています。
赤木 一見、1月1日のまま、ほとんど変わってないですよね。崩れた建物がほとんどそのままなので。でも進んでいる部分は進んでいるので、ポジティブに考えていったほうがいいですね。
田村 インフラはどうなっているんですか。
赤木 インフラは電気が1カ月で来て、水道が今7、8割回復していると思います。
田村 赤木さんのお家は?
赤木 うちは、まだ全然です。
田村 大変ですか、やっぱり。
赤木 大変ではないです。能登に帰られたら、うちにも遊びにいらしてください。
アオキ ぜひ伺います。能登の上の人のほうが明るい顔を見られるのかもしれません。
赤木 拙考編集室でできたばかりの『工藝とは何か』を買って支援いただけたら嬉しいです。工藝の本質は神、という話がこの本の主なテーマです。「拙考」で検索していただくと本の詳細や予約サイトが出てくるので、ぜひ一度、見ていただければと思います。
田村 今回の主催は「辺境地点」という名前でやらせてもらっています。県外の作家を招いて秋田で展示会をやっているんですがそれが「辺境地展」という展示会です。今度赤木さんを軸に「辺境地展」をやりたいなと思っております。そのときに『工藝とは何か』で共著となっているmatohuという服飾のブランドをされている堀畑裕之さんや、あと何名か作家を考えています。次は「辺境地展」の10回目です。今回、こういう機会で赤木さんいらしていただき、まず赤木さんと登壇者の皆さんに拍手をお願いします。実りの多い話になったと思います。ありがとうございました。
※輪島塗木地師の池下満雄さんが7月1日に逝去されました。心よりご冥福をお祈りします。拙考編集室では『小さな木地屋再生の物語』を編集中です。
※イベント参加者の皆様よりお寄せいただきました義援金121,316円は、田村一さんが代表をつとめる辺境地点より、石川県令和6年(2024年)能登半島地震災害義援金配分委員会に確かにお振り込みいたしました。
Profile
赤木明登:
塗師。1962年岡山県生まれ。編集者を経て、1988年に輪島へ。輪島塗の下地職人・岡本進のもとで修業、1994年独立。以後、輪島でうつわを作り各地で個展を開く。「写し」の手法を用い、古作の器を咀嚼した上で造形と質感を追求して作る器は、洗練されていながら素朴な暖かみを持つ。著書などを通じ普段の暮らしに漆器を使うことを積極的に提案している。著書に『美しいもの』『名前のない道』『二十一世紀民藝』など。拙考編集室を立ち上げ、新刊『工藝とは何か』(堀畑裕之との共著)を刊行。https://www.sekkousm.com/
攝津広紀:
蒔絵師。1969年秋田県湯沢市生まれ。石川県輪島で技術を習得。1993年金沢にて加賀蒔絵、金沢仏壇蒔絵を学ぶ。1999年秋田に帰省し、蒔絵師の三代目として家業を継ぐ。自ら素地、塗りも手掛ける作品作りも始める。800年の歴史ある漆器の産地「川連」にて「漆工房攝津」を営む。2008年全国漆器展経済産業大臣賞受賞。以後、経済産業省製造産業局長賞、日本漆器協同組合連合会理事長。若手職人5人で「漆人五人衆」を結成し、秋田、仙台、東京など各地でグループ展を開催。https://www.urushi-settsu.com/
佐藤祐輔:
新政酒造株式会社代表取締役。1974年秋田県生まれ。東京大学文学部英語英米文学科卒業後、ジャーナリストとして活動。2007年に家業である嘉永5年(1852)創業の酒蔵「新政酒造」に入社。自然の生態系、農業、醸造の有機的なつながりを求め「秋田県産米を、生酛・純米造り・木桶仕込みにより、当蔵発祥の六号酵母によって醸す」という哲学のもと農薬や科学肥料に頼らない酒米の栽培も手掛け、地域性を尊びながら本来の日本酒の姿を求めて様々なチャレンジを続けている 。
石倉敏明:
芸術人類学者。1974年東京都生まれ。秋田公立美術大学「アーツ & ルーツ専攻」准教授。シッキム、ダージリン、カトマンドゥ、東日本等でフィールド調査を行ったあと、環太平洋地域の比較神話学や非人間種のイメージをめぐる芸術人類学的研究を行う。美術作家、音楽家らとの共同制作活動も行ってきた。2019 年第 58 回ヴェネチア・ビエンナーレ国際芸術祭の日本館展示「Cosmo-Eggs 宇宙の卵」に参加。共著に『野生めぐり 列島神話の源流に触れる12の旅』『Lexicon 現代人類学』など。
田村一:
陶芸家。1973年秋田県生まれ。早稲田大学大学院修了後、東京で作家活動を開始。2002年に栃木県益子町に拠点を移し制作。2011年より秋田県に戻り太平山の麓の工房で作陶に励みながら、「ココラボラトリー」(秋田)「白白庵 」(東京)などでの個展や、グループ展で作品を発表している。九州・天草の陶土を使用し、近年ではグレーの粘土や信楽の透光性のある土「透土」もブレンド。中国古陶の青磁や現代作家の青白磁に影響を受け、ガス窯を還元焼成で焚く。
撮影(輪島)|赤木明登
撮影(会場)|牧野心士(秋田市文化創造館)
構成|熊谷新子(秋田市文化創造館)