秋田市文化創造館

連載

「かえるくんのどうする!?ラジオ」第3回 
-藤浩志×橋本誠-

収録日:2022年1月31日(月)
主催:秋田市文化創造館

秋田市文化創造館館長の藤浩志(かえるくん)が、キニナル人とトークを繰り広げるラジオ的プログラム「かえるくんのどうする!?ラジオ」。
第3回目のゲストは、2022年1月末日をもってアーツセンターあきたを退職した前・文化創造館プログラム・ディレクターでアートプロデューサーの橋本誠さん。秋田市文化創造館や全国各地のアートプロジェクトについて語り合いました。

 「かえるくんのどうする!?ラジオ」。今日はゲストに橋本誠さんをお呼びしました。文化創造館プログラム・ディレクターのお仕事、本当にお疲れ様でした。

橋本 卒業トークになってしまいました。

 秋田に来て1年?

橋本 1年7ヶ月ですね。あっという間でした。3年前くらいから、藤さんが会うたびに、「秋田がたぶんおもしろくなってくるんだよね」って囁くんですよね。

「いつ遊びに行ったらいいですか?」と聞くと、「いつとかじゃないんだよね。いつでもいいんだよね」と言っていましたよね。

 本当に来るとは。

橋本 私も本当に来るとは思っていませんでした。

藤 橋本さんとの活動で印象的なのは、東日本大震災の瞬間に同じ現場にいたこと。横浜の寿町(ことぶきちょう)で、大阪・西成、横浜・寿町のアートプロジェクト合同合宿をやっていた。

橋本 (「KOTOBUKIクリエイティブアクション」の一環で企画した)「寿お泊まりフォーラム」ですね。

 私が西成の活動に関わっていたからか、「ゲスト参加者」としてレクチャーに参加している間に揺れたんだよね。

アートプロジェクトが始まりだした2000年代

 今日は橋本さんが、トークメニューを用意してくれました。
取手アートプロジェクトの副産物」というのはどういうこと?

橋本 私がアートプロジェクトの世界に入ったきっかけは、「横浜トリエンナーレ」で、大学の先生だった室井尚と椿昇による作品に参加していたことと、「取手アートプロジェクト」があります。「TAP塾」という人材育成プログラムが展開されていて、私は直接参加していたわけではないのですが、報告会でもらい泣きしたり、刺激を受けました。

 茨城県の取手に、東京藝術大学のキャンパスができたことで、取手市と藝大が何か一緒にやりましょうと、2001年くらいからアートプロジェクトが始まっていたのだけれど、市民との接点を強化しなきゃということで、森司と熊倉純子が、TAP塾を開いて、アートマネジメントできる学生を養成することを始めたんだよね。

橋本 その後、寿町のプロジェクトを立ち上げ、2009年に東京都の事業「東京アートポイント計画」の立ち上げに関わることになります。

 東京都が文化事業に力を入れることになって、私もアドバイザーみたいな形で関わっていました。大きいホールとかアート施設を新たにつくるのではなくて、既存のギャラリーやNPOなど、すでに文化芸術の活動をしている人が、それぞれ拠点になっていくような取り組み。

橋本 最初「千の見世」というコード名でしたね。

墨東まち見世(東京アートポイント計画) 主催:NPO法人向島学会ほか

 東京アートポイントという、いろんな「ポイント」が増えていく。それをネットワークしていきましょうという活動で、5人くらい若手スタッフがいた。橋本さんはその中のひとりだったんだよね。 

橋本 ディレクターが森司。プログラムオフィサーとしてTAP塾の出身者も2名いました。

 TAP塾の出身者はいろいろなところで活躍しているね。
取手市はもちろんですが、東京都、八戸市、弘前市、北本市、直島、「ウポポイ」、黄金町……。
森司・熊倉純子は、それ以前の「トヨタ・アート・マネジメント 講座」の仕掛け人でもあるんですよね。
全国でアートマネジメントの人材を育成していこうと、トヨタが出資した養成講座で、私も巻き込まれて全国いろいろなところに行きました。
90年代は、地域の中にアートマネジメントの種が増えてきた時期。

橋本 始まってはいたけれど、世の中には知られてはいない時代。

 まだ草の根的な活動で、2000年くらいから大きい芸術祭ができてきた。
橋本誠とは、こういうアートマネジメントプロジェクトの申し子というか……そのひとつの横浜トリエンナーレに、巻き込まれたということなんだね。

椿昇+室井尚《The Insect World》(横浜トリエンナーレ2001)

BankART1929

橋本 大学生活を過ごした横浜は、今の動きにもつながる文化政策が形になりつつあって、現場でそれを感じながら駆け出しのときを過ごしました。「BankART1929」では、「Reading Room」「都市との対話」「幸田千依」展など展覧会を3つもやらせてもらった。

 BankART1929は、地域に関わるプロジェクトとしては、とても重要だったね。

橋本 旧富士銀行と旧第一銀行という、歴史的建造物活用を文化政策と結びつけた初期の事例。

 池田修らがNPOをつくって活動を始めて、近隣の空きビルを期間限定でアーティストに開放した。

橋本 横浜市がその様子を見て、デザイン・建築・アート系の事務所誘致のようなことも始めて、プレーヤーが増えるきっかけになりました。

 都市整備とも結びつきますよね。臨海地区に新しいものをつくっていく。
BankART Studio NYK」ができたり、京急電鉄が高架下でプロジェクトを始めたり、連鎖していくんですよね。今も増え続けている。

橋本 BankART1929の活動は、文化創造館の運営でも参照できることが多々あります。歴史的建造物を活用したところだし、NPO運営だし、企画も、貸し館も、まちなかでのプロジェクトも行う……

 拠点になりながら、横浜トリエンナーレという大規模芸術祭の会場に使われたこともありましたね。

岡山はアートプロジェクトにとって重要な場所

 岡山の話をしましょう。

橋本 私は東京生まれ、埼玉・岡山育ち、本籍佐賀です。東京で働いていた九州出身の両親が、「住みやすそう」という理由で、私が小学生のときに岡山に移住しました。
高校まで岡山市で生活していた。

 岡山は、実はアートプロジェクトや芸術祭にとってとても重要な場所なんです。
NPO法ができてから、最初のアート系のNPO法人は岡山にできたんだよね。
トヨタ・アート・マネジメント講座の最初の開催地も岡山だった。

橋本 もともと市民団体が多い土地ですね。文化系だけでなくそれを支援する民間の財団もいて、民間が元気。

 まず福武書店(ベネッセ)がある。直島のプロジェクトも重要だけれど、日本オリーブ株式会社の服部恒雄さんが、1984年に「JAPAN・牛窓国際芸術祭」を始めた。大学院生だった私もその第1回に招待され出品しました。
小さい村で、その後10年近く毎年開催していたけれど、芸術祭やアートプロジェクトの前史のような位置付けで、あまり取り上げられていないんだよね。
岡山にはこうした芸術祭ができる風土があって、市民やプロジェクトをする人が育っていった。
そして、「自由工場」ができた。
近くに倉敷、「大原美術館」があるのも大きいと思うんだよね。

橋本 倉敷なんかは特に、「稼いだお金を地域に還元するべき」という考えが根付いていますし、瀬戸内海の気候が恵まれていることも大きいと思います。すぐに役に立たないような、よくわからないことをやっていることに、寛容な感じがする。

 企業とか、お金を貯めている人がいるよね。
自由工場というのは、牛窓のオリーブ会社の服部さんが、岡山駅から歩いて10分弱くらいの、市役所の横にビルを持っていて、建て替えることになった。その建て替え前を利用して、アーティストに3年くらい解放したんだよね。ここにいろんな人が集まっていた。
ベネッセハウス」の学芸員だった秋元雄史もそのひとりで、その後「家プロジェクト」を直島で始めて、瀬戸内海が変わり始めた。
西日本の、「新しい活動をしよう」とした人たちがここに集まって、瀬戸内海ネットワークみたいのができてきた。

何をどう残すか。記述の重要性

 牛窓国際芸術祭や自由工場の時代は、「インターネット以前」なんです。だからドキュメントが残っていない。文化創造館での活動も、ドキュメントとしてどれだけ残していくかを大事にしています。「何をやるか」も大事だけれど、「何をどう残すのか」かが重要。
「すごくいいことがいっぱいありましたよ」という話はできても、それを記述しないと残らない。リアルをどう記述するか、すごく重要だよね。
インターネット以前も、ローカルでおもしろいことがたくさんあったけれど、伝えることができなかった。

橋本 自分のここ10年のテーマです。最初は現場がおもしろかった。アーティストの動き、市民の動きから出てくるものがおもしろいと感じて、アートプロジェクトや人材育成にも関わりました。
プレーヤーが増えていく一方で、あるときにふと思いました。絵画・彫刻のようなものは、残るし、収蔵もしやすい……

 質量のあるものね。

橋本 そうではないもの。すごい熱量でつくっているけれど、終わったら残らないと感じるものがあって、それは人ごとでなく、「私たちの仕事も残らないということだ。これはプロジェクトをやっている場合じゃないのでは」と、すごく思いました。
そこでノマドプロダクションを立ち上げて、プロジェクトやアーティストに伴走しながら、記録したり、活用の戦略を一緒に考える仕事へ多く携わるという動きにつながりました。

 ノマドプロダクションはどうやって立ち上がってきたの?

橋本 横浜で駆け出しの頃、「〇〇展実行委員会」だと、その都度解散で実績が残らないので、団体として実質ひとりでつくったのが最初。
その後、東京アートポイントを経てから、フリーランスでの働き方を模索するのですが、大きい仕事が増えてくると、ひとりではできないとか、何かあったときにバックアップがないとか、成長の機会がないことが、非常にまずいと思った。そこで同じような課題をもった同世代のアートマネージャーと3人くらいで実験的に始めました。一般社団法人化して、仲間を増やしていった。

 屋号を持ちながら、メンバーと一緒に働くことで仕事がとりやすくなってきた?

橋本 わかりやすくなったようで、相談が増えました。

 文化創造館もノマドプロダクションに発注することがあるかもしれないね。

橋本 最初からノマドプロダクションで仕事を受けることもできたかもしれないですが、外から関わるのと、中に入るのとは全然風景が違うと思うので、スタッフとして働く興味が強くて秋田に来ました。拠点性がないプロジェクトをずっとやってきましたから……

 拠点ね。私もなんですよ。拠点を持たずに、20年くらい、全国のプロジェクトをまわって放浪していたのだけれども、体を壊した。そのときに、1箇所に深く関わって、内部からやっていくことも重要だなと思ったのと、公共施設に関わるということにも興味がありました。
ずっと草の根の、民間の活動に関わっていたから、ひとつの場所の運営とか、管理をどこまでできるかなという興味もあって、最初は「十和田市現代美術館」に行って、その延長で秋田に来たんだよね。

人材育成の意義

藤 トークテーマの中の「人材育成事業は究極の普及事業」の話をしたい。
十和田で美術館運営をやっていたときに、美術館の商品は、作家だと思い始めた。外からもってきた作家で運営しているのだけれど、十和田で、作家や、マネジメントできる人が育てば一番いい、「地元でできる人を育てなければ」と思って、人材育成事業を始めた。
そのうちに、あるとき、大学がいいな、うらやましいなって思うようになったの。
そこで秋田を見たら、秋田公立美術大学があるじゃないかって気がついて。

橋本 大きな入り口があるのは強いですよね。大学職員として技術のある一定の人が来ることができる。

 さらに、学生は卒業していくけれど、文化創造館では、地域に暮らしながら何か活動をつくろうとしている人の育成ができる。
作家になりたい人、ビジネスを始めたい人、支えたい人。

橋本 東京アートポイント計画と連動した人材育成事業「Tokyo Art Research Lab(TARL) 」にはのべ8年携わりましたが、スクールプログラムは社会人の受講生が多かった。

Tokyo Art Research Lab 「思考と技術と対話の学校」(2014〜2017)
主催:アーツカウンシル東京(公益財団法人東京都歴史文化財団)

 私も講師で行っていましたが、ひとクラス30人くらいでしたよね。

橋本 都内で増えてきたアートプロジェクトで動ける人材を育てたいという建前はありましたが、卒業生の中には、会社で新しく何か始めたとか、アートではない現場で経験を生かす人が出てきた。途中からは、理解してもらう、自分たちのものにしてもらう、プロジェクトの普及事業だと思っていました。 

 未整理だったアートプロジェクトが整理されたのもよかったよね。

橋本 記録に力を入れていたので、成果物をつくる中で整理していきました。

 TARLはちゃんと拠点となる場所を持っていたのが良かった。千代田区の公立中学校を改装してできたアートセンター「アーツ千代田3331」のひと部屋を入居者として常時借りていて、まさに「教室」みたいな雰囲気だったよね。それが良かったと思う。

橋本 プロジェクトのアーカイブ資料もあって。

 公民館の一室ではなくて、学びの場としての空気感とか、大学まではいかないけれども共有できる資料があって、「現場」も近くにたくさんあった。
秋田にもいろいろな「現場」をつくっていこうという思いがあります。文化創造館も拠点であって、「現場」は外にある。たとえば教育や医療や福祉の現場。
文化創造館は、何かマネージメントが必要なところに、新しい価値や手法を創出していく場所になることを期待しています。

拠点がある意義

橋本 「現場はいろいろなところにある」というときに、拠点がある意義は何だと思いますか?

 両輪なんですよ。私は福岡で、「ミュージアム・シティ・プロジェクト」に携わっていて、「芸術祭とかアートプロジェクトという仕組みがあれば、拠点はなくてもいいのではないか」という発想でプロジェクトが進む現場にいました。たとえば秋田でいうと、美術館がなくても、千秋公園が舞台や展覧会場になるよね、駅前広場、商業施設、市場やデパート、公共施設など、どこでも会場にできるなら、それはそれでいいことだという考え。
だけれども、そうするとイベント的になってしまうのと、目的をつくらないといけなくて、目的に合わせたいろいろな「余計なもの」が発生しにくい状態になると思うんです。
それで拠点がほしくなるのだけれど、拠点があると、維持しなくてはならないから、余計にお金をかけないといけなくなるし、人も置かなきゃいけなくなる。
公立の美術館や公民館といった文化施設が拠点になりえればいいよねという話もあるけれど、やることが条例で決まっているから「余計なもの」が入れにくい。その中で運営の仕方を考える必要があるよね。

橋本 私は、「拠点だけれど、プロジェクトをやることがミッションになる施設」が増えていくのではと思っています。「アーツ前橋」のように。
「そうした動きも学ばなくては」と思っているときに、秋田に、NPOで運営する文化創造館ができると知った。施設の経験値はないけれど、プロジェクトの経験を生かせるのではと考えて秋田に来ました。

危機の時代を生き延びるアートプロジェクト

 最後に、著書の『危機の時代を生き延びるアートプロジェクト』(千十一編集室)の話をしましょうか。

橋本 アートプロジェクトに幅があるということを、書店に並ぶ本で伝えたいと思ってつくりました。
これまで、自分たちの活動や、依頼されて、活動を残したり伝えたりしてきましたが、一方で、直接関わってはいないけれど、いろいろな現場を見てきて、知られていなくてもったいないと思うものが多かった。
TARLの受講生も、アートプロジェクトに興味があるから来ているけれども、ほとんどが「大地の芸術祭(越後妻有)」、「瀬戸内国際芸術祭」、「六本木アートナイト」しか知らない。 

 実はもっと大事な、深いものがある。

橋本 細かいものとか。

 切実なプロジェクトとか。
本のつくり方もおもしろかったよね。

橋本 編著の影山裕樹さんは、業界の中だけでの議論に興味を失って、『ローカルメディアのつくり方』(学芸出版社)という本を出した。各地域で紡ぎ方がいろいろあるし、メディアそのものも、本やフリーペーパーだけではないと考えて、EDIT LOCALという各地の編集ネットワークをつくっています。
EDIT LOCAL BOOKSとして6人のライターさんと一緒につくることで、いろいろな視点を知ることができるかもしれない。そこにもおもしろさを感じて、クラウドファンディングでつくりました。

秋田の可能性

 秋田はどうでしたか。1年いて。

橋本 いろいろなことが起こる予感だけはいっぱいの場所ですね。

 そう。私は予感をつくることしかできないからね。

橋本 小さなことでも、仕掛けると反応してくれる人がいるのは、やりがいがありますよね。
コロナ禍ということもありましたが、スロースタートできたのはむしろよかったのではと思っています。
アーツセンターあきたのほかの事業と、秋田市、秋田県のいろいろなプレーヤーと、どう関わっていくかはこれからだと思いますが、今いる個性的なスタッフ中心で、焦らずじっくりやっていけば、おもしろくなるはず。
定点観察したくなる地域がいくつかあるのですが、秋田はそのひとつになりました。

 私はね、圧倒的に違うのはね、美大があるということなんです。どこに行っても、こんな贅沢な環境はなかなかないなと思います。美大だけではなくて、近くに秋田大学国際教養大学秋田県立大学など、いろいろな大学があることが、すごくいい。まちも急進的な感じがあるよね。そこがおもしろい。

橋本 まちがいいサイズですよね。薄まらないというか、岡山は、西と南からの流通が多いので、中途半端に都市化してしまう。

 秋田は流動しない。じっくり溜まりつつステイしてつくっていく感じがありますよね。ふだん流動しながらつくっている人からすると、ここでつくることのリアリティというか、そのおもしろさがたまらない。発酵していきそうな感じがしますよね。

橋本 発酵文化、感じますね。食べ物の発酵だけではなく。発酵できるというのはすごくいい場所だと思います。

(text 佐藤春菜 photo秋田市文化創造館)

「かえるくんのどうする!?ラジオ」第3回 -藤浩志×橋本誠-

収録日2022年1月31日(月)
会場秋田市文化創造館 1F コミュニティスペース
登壇者ゲスト|橋本誠(アートプロデューサー)
パーソナリティ|藤 浩志(秋田市文化創造館 館長)
Profile

橋本 誠 -Makoto Hashimoto-
アートプロデューサー/ノマドプロダクション

美術館・ギャラリーだけではない場で生まれる芸術文化活動を推進するアートプロデューサー。
東京都内の地域に根差した芸術文化活動を中間支援する東京文化発信プロジェクト室(現・アーツカウンシル東京)を経て、2014年に一般社団法人ノマドプロダクションを設立。NPO法人アーツセンターあきた プログラム・ディレクター(2020〜2021年)。

編著書に『危機の時代を生き延びるアートプロジェクト』(千十一編集室)、共著書に『キュレーターになる!』『これからのアートマネジメント』(フィルムアート)、『アートプラットフォーム』(美学出版)など。

Profile

藤 浩志 -Hiroshi Fuji-
秋田市文化創造館 館長

1960年鹿児島生まれ。京都市立芸術大学在学中演劇に没頭した後、公共空間での表現を模索。同大学院修了後パプアニューギニア国立芸術学校に勤務し原初表現と人類学に出会う。バブル崩壊期の土地再開発業者・都市計画事務所勤務を経て土地と都市を学ぶ。「地域資源・適性技術・協力関係」を活用し地域社会に介入するプロジェクト型の美術表現を実践。取り壊される家の柱で作られた「101匹のヤセ犬」、給料一ヶ月分のお米から始まる「お米のカエル物語」、家庭廃材を蓄積する「Vinyl Plastics Connection」、不要のおもちゃを活用した「Kaekko」「イザ!カエルキャラバン!」「Jurassic Plastic」、架空のキーパーソンを作る「藤島八十郎」、部室を作る「部室ビルダー」等。十和田市現代美術館館長を経て秋田公立美術大学教授、NPO法人プラスアーツ副理事長、NPO法人アーツセンターあきた 理事長、秋田市文化創造館 館長 
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