秋田市文化創造館

連載

あこがれのひと

3

尊敬するひとはいる、
好きなひとも、一目置くひとも。
でもあこがれのひとはそういない。
あこがれのひとに話を聞きに行きました。

安倍良行さん

(⼤⽇霊貴神社 宮司)

「大日堂舞楽」は、秋⽥県⿅⾓市の⼋幡平にある⼤⽇霊貴神社(おおひるめむちじんじゃ、通称⼤⽇堂)で、毎年正⽉2⽇に奉納される舞楽です。長嶺、谷内、大里、⼩⾖沢、4集落の能衆が集い、神社の前と殿内で舞楽を奉納します。養⽼2(718)年に元正天皇の仰せにより、⼤⽇堂が再建される際、都から遣わされた名僧⾏基とともに下向した楽人により伝えられた舞楽が起源といわれ、1300年間伝承されてきました。昭和51(1976)年には、国指定重要無形⽂化財に指定、平成21(2009)年には、ユネスコ無形⽂化遺産に登録されています。

能衆たちは、時が過ぎて緑がかった美しい藍の衣を着ていました。麻でできたその衣には、五本骨の扇に日の丸を染めぬいた紋様が浮かび上がっています。頭にかぶった綾笠からは、5色の和紙が、幾筋もの髪のように垂れ下がっていました。整列した彼らを、安倍良行宮司がお祓いをしました。年末からの、集落ごとの数々のしきたり、禁じ事、作法を経て、ここにようやく4集落の能衆が勢揃いしたのです。

「あこがれのひと」第3回は、⼤⽇霊貴神社、安倍良行宮司のお話を、うかがいます。

お祖父さまの夢

神社は昭和24(1949)年に火災に遭って全焼しました。私が生まれる前の年です。私たちが今いるこの神社は昭和27(1952)年にできたものです。今と違うところは当時の屋根は板葺で、次の年に雪の多い所なのでトタン葺に替えました。

この神社を再建する際には私の祖父が図面を引きました。秋田市の高清水公園に護國神社がありますね。平成2(1990)年に時限爆弾が仕掛けられて全焼してしまいましたが、焼ける前の建物も、祖父が監督して建てました。

──  建築のお仕事もされながら、宮司も兼ねておられたんですか。

谷内集落の能衆6人による「五大尊舞」。「権現舞」「駒舞」「烏遍舞」「鳥舞」「五大尊舞」「工匠舞」「田楽舞」の順に行われる「本舞」のうち5番目に行われる、「だんぶり長者」の舞。「だんぶり長者」とは「大日霊貴神社」の縁起を伝える本地物。昔、働きものの夫婦がいた。1匹のだんぶり(とんぼ)が飛んできて、夫の口に尻尾で2、3度触れた。だんぶりの後を追うと岩陰に酒が湧く泉を見つけ、夫婦は豊かになった。夫婦の娘は優しく美しく成長し、継体天皇に仕え、吉祥姫と呼ばれた。父母がこの世を去ると、吉祥姫は継体天皇に願いでて小豆沢の地に大日霊貴神社を建て供養した。

祖父は明治24(1891)年生まれです。もともとはここの後継ではなくて、建築士でした。ところが兄に子どもがなく、神社を継ぐために昭和の初めに帰ってくることになりました。私の母が生まれたのは熊本です。満州にも行って、仕事をしてきたようです。当時の土崎港の修築や、十和田ホテルも監督しています。昭和14(1939)年開業ですね。

この辺りは茅葺屋根でしたから、火の粉が飛んで延焼するんです。私が3歳のときに下の家が2軒焼けて、その飛び火で今度は自宅が焼けてしまいました。祖父は自分のうちを建てるのは二の次で、焼け残った蔵を改造して、私が高校に入るまでかな、13年間、明治の初めにできた蔵に住んでいました。

神社も自宅も焼けたから、お金がなかった。うちには広大な林がありましたが、戦時中に木を供出しろということで、ほとんど切られていました。軍の船を造るんだといってね。家は建てず、家があった所には、平安神社という祖霊舎、神道でお葬式する方々のための施設を建てたんです。

──  地域の中の歴史的な役割と、ご自分で得た技術が合致して、何倍も活躍されたところはあるのでしょうか。

長嶺集落の能衆6人による「烏遍舞」。折烏帽子(おりえぼし)に頬面(ほおめん)をつけ、太刀を抜き打ち、声明(しょうみょう)を唱えながら、鼓、笛の囃子で3節を舞う。舞の終盤に幸運を授かるという御守を撒き、舞台を降りる。継体天皇のお后であった吉祥姫の遺体を葬る様子を舞にしたものと伝わる。墓固めの舞とも呼ばれる。

祖父の姉の子どもが女性のパイロットなんですよ。NHKに「雲のじゅうたん」という朝ドラ(1976年4月5日〜10月2日放送)がありました。戦前の女性のパイロット2人、及位野衣(のぞきやえ)さんと、祖父の姉の子で馬淵テフ子(まぶちちょうこ※)がモデルだといわれています。祖父は鹿角にテフ子のための飛行場を造ったんです。鹿角の奥まった、花輪菩堤野という所です。テフ子はそこに着陸してね、郷土訪問飛行です。

テフ子の父親は東京出身の軍人だったものですから、あちこち転勤して、東京の女学校に入り、陸上の円盤でオリンピックを目指したらしい。ここで暮らしていた頃は体が弱くて、向こうに行ってから鍛えて、お友達に誘われて飛行機乗りに。そのお友達は男装をしていました。飛ぶだけではなくて宙返りやパラシュートで降下するのも見せたようです。

※昭和9(1934)年3月、二等飛行機操縦士の資格を取得。同年8月、秋田県鹿角市への飛行を行う。10月には満州国建国親善飛行を敢行。ドイツへの飛行も計画していたが、昭和12(1937)年に日中戦争の勃発で断念。女性が飛行機に乗ることも認められなくなった。

祖父は田んぼを飛行場にして観光客を呼ぼうという壮大な夢を持っていました。十和田湖は和井内貞行という方が開発に尽力され、昭和11(1936)年に八甲田連峰、奥入瀬渓流とともに国立公園に制定されました。この間の朝ドラは、牧野富太郎先生が主人公でしたね(※)。八幡平に牧野先生が来て植物を記録し広めてくれたおかげもあって、八幡平も昭和31(1956)年に国立公園になれたんです。

※NHK連続テレビ小説「らんまん」2023年4月3日〜9月29日放送。「牧野富太郎植物採集行動録」によると昭和2(1927)年8月25~27日に八幡平を訪れたとある。

農業だけでは大変なので、観光を主たる産業にしなければというのは、この地域の先人たちが頑張ったところです。まず農業、尾去沢鉱山、そして観光もあれば発展していくだろうと。湯瀬温泉も玉川温泉も、お客様を泊められるような施設にして、農業もやって、牛や豚を飼って、自給自足で旅館業をやりたいと。

つないでいかなければ

祖父の兄がいたとき、まだ父親も健在でしたが、昭和7(1932)年に、早稲田大学の本田安次先生という民俗芸能を研究している方が、祭礼の前日に来られたんです。本田先生は福島の方で、盛岡の八幡宮でここに珍しい舞があることを聞いて、祖父の兄に取材し史料を調べ、舞楽を採録しようとされた。でもそのときたまたま4集落の1つが休んでいた。昔はたまに揃わなかったことがあるんです。

とても寒いものですから、たくさんお酒を飲んで、喧嘩になることもよくあったようです。本田先生は翌年にまたいらして、谷内で見聞きし、論文を発表しました(『鹿角郡小豆澤の祭堂(ざいどう)正月二日の神事』)。それで全国的に知られるようになったんです。それまでは地域の者だけということで、他から見に来るということもなかったでしょう。

── 養⽼2(718)年、奈良時代が「大日堂舞楽」の起源といわれています。

「本舞」のうち最後、小豆沢集落6人による「田楽舞」。「だんぶり長者」が農夫を労うために舞ったとも農耕の様を表すともいわれる、日本最古の「田楽舞」。

正確な記録がないので不明な点も多いのですが、いずれ綿々と伝えられてきました。田んぼを与えられて、それを基盤としてやっていくようにと。田んぼを与えたのはここを治めていた豪族でしょう。怠ると神罰が当たるともいわれていました。

江戸時代、長嶺集落では毎年、舞う人が替わっていたんですよ。舞った人に田んぼを耕す権利が与えられた。舞うのは男なものですから、男がいなければ、女の人は、誰かに代わってもらい、舞ってもらっていました。明治になって、政府に土地が取り上げられそれがなくなり、いっとき、4集落が揃うことがなかった時代があります。明治3(1870)年から24(1891)年まで、その長嶺という集落が全く関わらなくなった。他の集落も来たり来なかったりで、小豆沢だけは毎年続けていたようです。でも日清・日露戦争の頃(1894年と1904年)にまた4集落が集結した。

国威発揚、われわれも威勢を示さねばということで。でも結局それも長く続かなくて、このままであれば絶えてしまうというとき、昭和8(1933)年頃、村の経費で舞楽を復興しようということになりました。1931年は満州事変ですね。出征兵士の武運長久の祈願も兼ね、年々盛大に行われるようになり、戦時中は参拝する方も多く、昭和20(1945)年まで続きました。

大里集落の能衆2人による「駒舞」。継体天皇の第五皇子、五の宮皇子の乗馬である月毛の駿馬2頭を表すといわれる。全国に伝承されている駒踊りの原型で、この舞の駒頭は御神体とされ、これを身につけると温和な人も荒駒のように勇ましくなるといわれている。

けれども戦後の法律改正で、市町村の自治体が宗教を援助することが禁止され、また難しくなりました。そうしているうちに、昭和27(1952)年に文部省の無形民俗文化財に指定され、大日堂舞楽の保存会をつくり、4集落でまとまって、今日まで来ています。その都度、地域の信仰心のある人たちが、これでは駄目だと、自費で盛り上げていこうということが、あちこちでありました。

──  地域の方たちがつないでいかなければといったお気持ちの根幹は信仰心ですか?

一つには信仰心ですが、無意識な部分もあると思うんです。私は信心だからという人もなくはないけれども、親からこういう言い伝えがあるからとか、ずっと続いているからとか。うちのおやじはこうだったとか、じいさんがたがこうやっていたとか、一生懸命やっていた姿を間近で見ていて、私もやらなきゃならない、というのはあると思います。

楽器や装束

──  祭礼の段取りや舞の所作は、複雑そうです。

何度も練習しなくてはなりません。「権現舞(※)」の尾がらみをやる子どもは、昨年と今年は「権現舞」を舞う人の息子です。でも今はほとんど世襲はなくなりつつあります。このままいくと、遠からず1軒だけになってしまう。

※継体天皇の第五皇子、五の宮皇子の御霊を慰める舞。獅子頭は権現様と呼ばれる。五の宮皇子が五ノ宮岳に入山されて戻らず、その隣に聳える八森岳に龍がたなびき、里人を恐れさせたので、皇子の御霊を慰めるために獅子頭を奉納して、舞われるようになったといわれている。能衆が獅子頭を掲げて勇壮に舞い、子供が獅子の尾を振る。舞の前に「待笛」と呼ばれる、神様をお迎えするための笛を吹く。

──  舞う人、奏でる人で、総勢何人になりますか?

35人です。楽器は太鼓と笛。ここでは太鼓のことを鼓(つつみ)と言います。笛は、木の笛なんですよ。竹笛ではなくて、朴(ほお)の木をくりぬいて作ります。それと鈴です。あとは「田楽舞」のときに簓(ささら)を使います。

──  そういう笛も、新しく作る人がいなくなってしまうのでしょうか。

この先もう作る人が出てくるか分からないです。昭和のはじめから使っていた笛の調子がなかなか合わなくなった頃、平成になってからかな、舞楽をやっている人で、作ってみたいと。一念発起して、自分で作ってみるってね。当時40歳くらいだったのではないでしょうか。小豆沢の笛だけ作ったら、他の集落からも頼まれて、結局、全部の集落の笛を作りました。難儀して何十本も作って、よくできたのを各集落に2本ずつ渡しました。そういう人もあります。

その方の笛は今も使っています。それから谷内の「五大尊舞」のお面ね。顔にぴったりこなくて、辛抱しながら使っていました。そしたらまた、作ってみたいという方が現れて。

その人は市会議員や谷内の自治会長も長い間やられた方でしたが、独学で研究をして作ってくれたんです。今、使っている面はその方のものです。さっきいった信仰心、その方のうちは谷内の舞がいっとき廃れたときに尽力されたうちです。そういう方々がこれまではいて、地元でできるものであれば、ここで作る。どうしてもできないものは業者に頼んで作っていただいてきました。

──  装束も受け継がれてきたのですね。

装束は、麻の布に藍染です。藍染は、時を経るごとにだんだん薄くなっていく。褪せた色しか見ていない人は、それが当たり前だと思います。だから国の予算をいただいて作り直したときには、京都の500年の老舗の装束屋に、その褪せている色に近い色に染めてもらったんですよ。けれど、次はなかなか見つからなくて。那須高原に藍染の工房があるんですね、たまたま研修で行ったことがあるのを思い出して、夫婦でやられている工房に10数着、頼みにいきました。そしたら本当の藍染なものだから、濃い色なんです。出来上がってきたら、ある人が「こんなに濃い色か」って。もっと薄い色のはずだと、なかなか納得できない。

── 藍が褪せて、緑がかった美しい青になっていますね。

そうです。その次に作るときは急だったものだから、その夫婦へ頼むこともできなくて秋田市の染め物屋に頼んだ。素材は麻だけれども、太い糸で織って丈夫にしようと。すると生地が厚いとそれだけ染料がかかる。高くてとてもできない。伝統とは少し違うのですが、化学染料も使ってもらっています。

宮司という仕事

── 高齢化といいますが、大勢の若い男たちの、勇ましい舞があります。

本舞の前に、殿内に入ってすぐ行われる「籾押し」ですね。もともとは4集落でやっていたらしいです。ところが、これも喧嘩になって、小豆沢だけでやっていました。近年は他の集落からも応援してもらうようになっています。決まりはないですがだいたい40歳まで。今年は40歳過ぎた人もいましたね。少子化もありますから、足りないと中学生にお願いすることもあります。

農作業を模した「籾押し」。小豆沢の青年多数によって奉仕される。頭に鉢巻、右手中指に5色の紙をつけ、「ヨンヤラヤーエ」の掛け声と「ソリャーンサーエ」の受け声に合わせて舞われる。

この周りの集落には夏に子どもたちだけの舞もあるんですよ。昔は男だけでやっていましたが、今は女の子も入って。兄川という岩手県の集落から伝えられた舞だというので昔は「兄川舞」と言っていましたが、今は「先祓(さきばらい)舞」といいます。なかなかこれからは大変だと思います。今まで男だけでやってきている行事は、いずれ女の人も入ってやらなければならない時代が来ます。

── 宮司というお仕事がどういうお仕事なのか、日々どういう営みをされているのかあらためてお話しいただけますか。

神職というのは、まず掃除をすること。神に仕えるのであれば、そこをきれいにするのが当たり前だ、ということは古い時代からいわれています。それと維持していくための経営的ないろいろをやらなければなりません。あとは神さまにお祈りをして、一般の方と神さまの仲を取り持つ。とにかくここを守っていくことが大事です。

──  精神的なことだけではなくて、経営も大仕事なのですね。

そうです。だからこれからは難しいと思います。本当に極端に老人だけの地域もありますから。ここはまだいいですね。ここに人がいるのは、私だけではなくて周りの方々の努力の賜物です。ここに残るであるとか、帰ってくるであるとか。誇りの持てる地域なのだと、私の子どもたちが小中学生のときは、子ども会などで、伝えてきました。それがなんとか今につながっていると思います。

大里集落の3人の子どもによる「鳥舞」。「だんぶり長者」が飼っていた鳥の舞。子ども3人がオス、メス、ヒナの鳥かぶとをつけ、親子がむつみあう様を表す。右手に日の丸の扇を持ち、オスは左手に鈴を持ち、笛、鼓の囃子に合わせて3節を舞う。

いずれ女の人も

もうあまり親が、ああしろこうしろと言わなくなりましたね。簡単に離れてしまう人もいますから。続けていくのはいっそう難しい。今、秋田県の神職でも半分以上は後継がいないです。もう10年で絶えてしまう所はたくさんあると思います。世襲じゃない形で、新しい人がなる場合もありますね。女性の人の神職も多くなってきています。県内にも結構いるんですよ。女人禁制は昔からあったと思いますけども、実際この鹿角にも江戸時代に女性の神職がいました。江戸時代ですから五人組という制度があって、その中でちゃんと認められて、神職として奉仕した方です。

── どうして自由なお考えをお持ちなのでしょうか。

大里の能衆4人による「工匠舞」。大日霊貴神の御神体を彫刻する様を舞い表した、匠の舞といわれている。笛、鼓の囃子で静かに舞う。

やはり私の祖父の影響もあると思います。祖母も歌人でした。若山牧水の奥さんの喜志子さんから歌を習ったようです。それと私は恩師に恵まれたと思います。私は大学4年間と大学院に2年入ったので、6年伊勢にいました。歴史の勉強と、神職の資格を取るために。大学の恩師には、授業以外でもたくさんのことを教わりました。先生のお宅へ、隔週で、グループでうかがって。いろんな所に連れて行っていただき、いろんな方に会わせていただきました。見聞きをするのは大事だなと思います。

ここは地理的に閉ざされてはいますが、江戸時代から交通の要所で、文化的な交流がありました。日本海の北前船で能代から入ってくる文化もありましたし、野辺地湊(のへじみなと)から尾去沢や立石の銅を積み出していました。それから鹿角には、紫根染・茜染という献上品もあります。ムラサキとアカネの植物の根で染める草木染で、奈良時代から伝承されてきました。

『古事記』に秦氏の首長の本拠地として京都の葛野(かどの)郡が出てきますが、恩師はその「葛野」に「かづの」と仮名を振っていました。そこに秦氏が松尾大社を建立したのは大宝元(701)年と伝えられています。松尾大社にはお酒の神様が祀られていますね。ここの神社にも、酒の泉の「だんぶり長者」の由来がありますから、そういうつながりも、もしかすればあるのかなと思ったり。

──  いろいろなお考えの方がいらっしゃるでしょうから、そのうち女の人も舞っていいと発言すると、驚かれませんか。

能衆のみなさんの前で話したときの反応も悪くなかったと思います。固まっちゃいかんということですね。次につなげていかなければならないというのが、一番にあります。

Profile 安倍良行(あんべよしゆき)さん
昭和25(1950)年、秋田県鹿角市生まれ。⼤⽇霊貴神社宮司。

参考文献:『大日堂舞楽(増補)』(平成6年正月25日発行)
協力:安倍良直氏(大日霊貴神社禰宜)

写真:石川直樹  聞き手:熊谷新子