あこがれのひと
4
尊敬するひとはいる、
好きなひとも、一目置くひとも。
でもあこがれのひとはそういない。
あこがれのひとに話を聞きに行きました。
堀岡 盛 さん
(中華料理「盛」料理人)
〝きどらない通の味〟──
秋田市八橋の住宅街の一角にある、行列の絶えない中華料理店。
名物はレバニラ炒め定食、麻婆豆腐、店の隣の畑で採れたての野菜や、旬の食材を使ったおまかせの一品料理など。つわものの栄養満点の料理を目当てに、日々常連客で賑わい、県外からも多くの人が訪れます。
お話をうかがった日の盛夏の畑は、二荊条、牛角大王、螺絲椒などの唐辛子をはじめ、トマト、ゴーヤ、ツルムラサキ、仏手瓜、パクチー、コリアンダー、フェンネルなどで溢れていました。
「あこがれのひと」第4回は、「盛」料理人、堀岡盛さんのお話をうかがうことができました。
── きょうの賄いはなんですか。
盛 なんもあるものでよ。明日休みだもの。あるものを炒める。
スタッフ 〝みず〟のたたきをやりました。
盛 不気味な色でしょ。
スタッフ みずは湯通ししないとこの色なの。根っこの赤いところだけね。
── お味噌で味つけですか。おいしいですね。これは中国味噌ですか、普通のお味噌汁の味噌ですか。
盛 普通の安い味噌だよ。
スタッフ 山椒の葉っぱをちょっと入れています。
── 生まれたのは。
盛 ここ八橋。昭和22年3月17日。五人兄弟の一番下。18歳で秋田を一回出たの。内申書がよがったがら先生が手紙を書いでけで、「目黒雅叙園」の中華部さ入ったの。次が赤坂の「山王飯店」。昔は目黒も山の中で自然があった。蛇を捕まえたりいろいろやったよ。
── 一日のスケジュールを教えてください。
盛 朝4時か5時に起きる。体がそういうふうになっている。朝はここで食う。いま女房いねがら。仕事が終わって19時半。家さ帰ったってすぐに寝られねべ。テレビを見て居眠りして、11時に風呂さ入って、12時に寝る。そういうパターンよ。
── 夜ご飯は?
盛 かねのよ。今日はこれで終わり。帰ってもおれは酒も煙草もやらねしよ。お茶っこ飲んで、風呂さ入って終わりだよ。今日だって100人以上の客だもの。
── いまは真夏でお客さんはいつもより少なめですか。
盛 いや、ほとんど変わらない。
── 食材はどこで調達しますか。
盛 隣の畑だよ。市場と、調味料は中華食材の専門店。ないものは自分で発酵させて。それだけ修行やってきたがら。
ウエイトリフティング部
── 少年時代は何で遊んでいましたか。
盛 山か田んぼよ。高校でウエイトリフティング部、重量挙げ。腰を壊して、選手をでぎなぐなってしまって、2年の中期にマネージャーになったの。
── 子どもの頃から料理が好きだったんですか。
盛 それで合宿で賄いを作ったわけよ。エピソードがすごいんだよ。金足農業高校だけど、木造の校舎で。大きな五右衛門風呂みたいな窯で20人分の野菜炒めてさ。ものすごい火柱が上がって、死ぬ思いしたんだ。今なら火柱が上がろうが技術でおさえられるけど。火事なるどごであった。布団かぶして消したわげ。そしたら窯の底が抜けてさ。その窯をなんとして処理しようと思って、山さ行って穴を掘って埋めてきた(笑)
── お母さんが料理上手だったのですか。
盛 うん。当時は好き嫌いでぎながったのよ。料理を作るのは、食って体力をつけるためだった。それが料理のスタートよ。仲間は法政大学に進んで、2人、1972年のミュンヘンオリンピックに行った。学ランを着て雅叙園に来るわげよ。日大や近畿大のボクシング部の仲間も連れて。親方に言うとOK OKって。雅叙園、食堂でねんだよ。
── 高級宴会場ですね。
盛 俺、真面目だったから、親方が料理を振る舞ってくれて。俺の仲間なら、そういう事情ならどうぞって、いい部屋に案内して食わしてくれた。で、帰りに一杯飲みにいぐってば、親方は小遣いけでやるわけよ。そういうスポーツの関係のやつらがいっぱい頼ってきてあった。昔はそういう心のあったかいところがあったのよ。
ひたむきに努力しても
盛 目黒雅叙園に3年いて、そのあと赤坂の山王飯店に。あの頃の赤坂は上海料理のメッカよ。全国から中華街の倅だとかが赤坂に集まっていた。山王飯店にはコックさんが70人もいだった。揉まれたよ。料理の失敗っていうのは全部覚えている。いっぱい失敗している。失敗して覚えるのよ。修行が半端じゃないもの。修行はいいどごでしないとだめ。雅叙園と山王飯店は2度入って修行しなおしたぞ。
── 特に苦労されたことはなんですか。
盛 中国語だもの。中国語にもいろいろあるから。俺は上海語ね。広東の人と北京の人は中国語で話をできない。ほかにも台湾、沖縄。1970年には大阪万博に、72年の札幌の冬季オリンピックにも料理人として行った。ヘッドハンティングされるわげ。あいつは腕がいいとか、ダメとかすぐ伝わる。
── 料理の世界では、ひたむきに努力をしてそれでもダメな人はいるのですか。
盛 いるよ。女とか酒とか博打で私生活がダメなやつがいる。私生活がダメだと体を壊す。味覚が悪くなるだろ。だから俺は酒も煙草もやらないの。やってる暇ないの。生きるか死ぬかの競争だから。
リビアにて
盛 1975年の6月、28歳の終わりにカダフィ大佐の時代のリビアに行ったんだ。日本の丸紅と国土総合開発のプロジェクトで、リビアの首都トリポリに軍港を築く工事の、料理班のトップで。1年契約で、帰国したら独立して自分で店をやるって決めたから。
── どういう生活でしたか。
盛 大変なのよ。まず言葉分からねべ。アラビア語だべ。英語でねもの。買い出しの言葉と、男女の言葉はすぐ覚えるのよ。食材は俺が全部現地調達する。30人のエンジニアの食事を作んねばなんねもの。
── どんな料理ですか。
盛 あるものでよ。食材が限られるから。市場に行っても切り身の魚なんてないもの。地中海に鮭がいるわけでねし。アカエイなのサメなの。イスラムだから豚肉がダメで、牛肉、羊肉、鶏、ラクダ。日本の米みたいなものはなくて、精米の技術もないから石が入っでだりよ。日本人はパンばっかり食ってられねべ。中国やアルゼンチンの米を探した。3交替の突貫工事だもの。弁当も作んなきゃならないし。砂漠は40度以上だよ。お金もらえるだけのことはあるよ。あの頃で基本給40万円くらいもらったもの。今でいう200万円。ものがねえんだって。味噌も醤油もねえんだって。味は塩がベースよ。岩塩だべ。とっても難儀するわけよ。運よく、酒もない、女もいない国だから、ひたすら仕事。カダフィ大佐がうるさがっだがら。
── 休みの日は何をされていましたか。
盛 100キロも行けば、ローマやギリシャの遺跡がいっぱいある。リビアは観光で行がれないもの。エジプトとかチュニジアは行けるけどな。
── 今も?
盛 行けない、行けない、危ないよ。俺はラマダンも経験したし。太陽ででる間まま食えねえんだがら。若いもんはいうごどきけないよ。モスクに行って、アッラーの神にお祈りもした。
── 辛かったですか。
盛 あっという間よ。辛いどか言ってらいねの。それを乗り越えないとやっていがれない。それは部活で鍛えた精神があったから。
── ホームシックにもならない。
盛 すたひまねえよ。
── あれはフカヒレですか。
盛 そうそう。休みの日に地中海で仲間とサメを獲ったの。海にいっぱいいるもの。干して、コーランの一節を書いてもらった。
── 現地の方との言葉は?
盛 ゴチャ混ぜよ。アラベシもあるべし。
── アラベシ?
盛 アラビア語。いまだに苦労したことは覚えているよ。そういう経歴だ。おもしぇってばおもしぇども、なんでも若いうちだ。
町田で「盛」をオープン
盛 女房は留守番よ。
── 当時もう結婚されていたのですね。東京で出会ったのですか。
盛 大阪万博で。長崎から来てお店のホールに入ってきたの。よく仕事する女房でよ。1976年の6月に、リビアで貯めたお金で町田市に自分のお店をつぐったの。
──「盛」は東京都町田市がスタートなのですね。
盛 JR横浜線の成瀬駅を一生懸命工事していた時だよ。町田はいまはすごい都会だねが。団地の一角に夜逃げした中華のお店があってよ、借金しないで400万円。そこで6年間。子どもが、お姉ちゃんが生まれて6ヶ月でこっちさ来たの。親が田んぼがあるから帰ってくるなら帰ってこいって。
── 町田のお店はすぐに順調だったのですか。
盛 のんびりよ。
娘のために秋田へ
── 食うには困らず。
盛 借金がないがらな。ここのお店の半分くらいのお店で。2軒隣のアパートを借りて女房も店で働いているから娘をベットさ1人で寝かせていて。インターフォンでつないでワンワン泣いているのが聞こえるわけ。やばいなと思うと走る。当時寝返りで窒息死してしまうとよく言われていた。そういう話をすると、実家の親は、赤ん坊の面倒を見でやるがら戻ってこいって。あの頃、秋田にダイエーがあって中華の店が入っていた。要するにファミリーレストランな。そこの料理長の職を見つけたんだ。2年働いてここに「盛」を建てた。倅が生まれた1983年9月に開店だから41年目だよ。
──息子さんとお店が同じ歳なのですね。
盛 ほとんど同時であった。2歳の娘と倅は4時まで保育園、夜まで親に預けでよ。女房が働くっていうことは大変であった。
── ここで始めた頃からお店は評判だったのですか。
盛 秋田ではホテル以外に本格的な中華料理は他にねがったもの。ずっと忙しがったよ。で、現在に至るだ。女房が元気な頃は夜もやったったのよ。なくなって昼だけの営業にしたんだ。
自分の畑で野菜を育てる
盛 借金は返したべし。隣の土地を買って駐車場にして畑を始めた。日本にない野菜の種が欲しくて。中国には24回行ったよ。日本財団の笹川良一を頂点にして、日本中国料理調理師会というのがあった。北京であろうが、上海であろうが、四川であろうが、広東であろうが、中華の料理界を一つにまとめた。1972年の日中国交正常化で中国本土に行けるようになった。それまでは行けながったのよ。行って、本場の料理を勉強できるようになった。日本から錚々たるメンバーが30人くらい選抜されて、中国共産党も絡んだ一流店に研修旅行だよ。日本の各流派の親分連中がいて。自分の店は2週間クローズせねばなんねくて。
── 研修というのは厨房で。
盛 そう。市場にも行って。食べて。最終的に、財団から6人のうちの一人に選ばれて福建省の研修にも行った。本場は違う。空気も水も違う。だから結局野菜も自分で畑に植えなきゃいけなくなる。
── 畑には何種類くらいですか。
盛 20種くらい。日本にない唐辛子に始まって。
── 麻婆豆腐とかの独特の風味は。
盛 その唐辛子のだな。俺にしかできない。だから皆こさ来るのよ。日本で雑種になれば味が変わる。純粋なものがないと。難しいよ。
── 野菜はすぐに育てられたのですか。
盛 いや、風土が合わないと。向こうに行って肥料の勉強もしたよ。臭いものは撒がれねし。野菜は採れたてにまさるものはないから。今日はゴーヤと、つるむらさきの葉っぱ。
── 最高においしかったです。レバーと炒めたゴーヤとつるむらさき。私は盛さんのレバーだけ食べられます。
盛 午前中につぶした豚、8頭分のレバー10kgをその日のうちに捌くんだよ。鮮度も切り方も調理法も違うんだ。そろそろ片付けなきゃいけないがらよ。まだ来い。頑張ってな。
●中華料理 盛
010-0973 秋田市八橋本町5丁目6-1
営業時間:11-14時 水・日・祝休
電話番号: 018-824-1313
※11月〜3月上旬(毎週土曜のみ)朝7時から200個限定で中華まんじゅうが販売されます。
自家製の天然酵母で発酵させた、中国古来の老面式による手作りまんじゅうです。
・鮮肉包子…にくまん
・豆沙包子…あんまん
・花捲児 …まんとう
冬が待ち遠しいです。
写真:石川直樹 文:熊谷新子 デザイン:谷戸正樹