秋田市文化創造館

連載

あこがれのひと

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尊敬するひとはいる、
好きなひとも、一目置くひとも。
でもあこがれのひとはそういない。
あこがれのひとに話を聞きに行きました。

古関こせき ひろむさん

(新政酒造株式会社)

秋田の蔵元「新政酒造」で酒造りの最高責任者である杜氏とうじだった古関弘さんは、
新政の「農/醸一貫化」を果たすために2016年から秋田市河辺の鵜養うやしない
無農薬無肥料の酒米作りに挑戦しています。

突然、酒造りから田んぼへ

古関 2016年の11月、造りの時期に、朝礼で社長にポンと言われました。「来年から鵜養で農業をすることにしました」。拍手。「鵜養には当社の最大の戦力を送ります」。誰だろう?「古関くんです!」。ま、まじで……。根回しないの……って驚いて。

社長に、真剣なの?って聞きました。鵜養というところで、米を作るだけではなくて、無農薬とか、酒蔵を造るとか本気ですかって。地域の方と一緒にやるんですねって。何度も確かめて、本気だと言うので。僕の役目の位置が変わるんだなと思いました。僕は杜氏でもありますが、社長とみんなを繋ぐのも仕事です。次は社長と地域の間に入るのかって。そういう夢を見るなら、頑張ろうと、2ヶ月迷った末に決心しました。

── 2ヶ月間、逡巡がいろいろあったのでは?

古関 僕はお酒を造りたくて新政に来ました。会社員にしてもらっていましたけど、職種は「杜氏」という感覚でいました。酒造りができなくなるんだったら会社を辞めようか悩みましたね。会社で働いて給料をいただくということは、自分の意志でそこにいるということ。そのためにどういうマインドセットでいればいいのか。

強烈にハードルが高いからこそ、楽しんで、自由で、最高のパフォーマンスが出ているって大事だと思います。一番大事なのは自由であること。自由とは何かというと、選択肢が無限にあるのは選択肢の奴隷になっているだけで、自由とは、目の前に壁があった時に、どうやって超えようか考えて、工夫する、その時の頭の中のことだと思っています。

僕の最初の蔵は富山の山奥にあって、合掌造り集落がある世界遺産の村に10年いて、地域がどういうものかそこで学びました。社長には、僕は鵜養に移住するからねって。インサイダーにならないと地域の人は動かない、通っているうちはアウトサイダーで、本気でやると決めたのなら住民票も移す。僕は田んぼに来たというよりは、鵜養に来たんです。

僕の強みはたぶん何も知らないこと

── ゼロからのスタートですよね……先生とかいたのですか。

古関 地域の人に習います。「5年後ここに無農薬の米しか使わない蔵を造る」と社長が言ったのがゴールなので、そこまでの最短距離を走るだけです。

── 無農薬をやっていると、次から次へとトラブルがありますよね。それをどうやって……ネットで調べたのですか。いきなりできることですか?

古関 知らなかったからできたんです。今でこそ除草にも詳しくなりましたけど、300円や500円の薬を撒いたら草をとらなくてすむんだよ、ということを知っていたら辛かったと思います。最短距離を走ろうと思っていたので、初年度は何も勉強しないで入りました。

── え?

古関 要は、分かってしまうと感じることが鈍るので。何も知らずに皆さんと一緒に田んぼにいて、田んぼって何?稲って何?を、分からないままどれだけ飲み込めるかが初年度のテーマでした。一回収穫してから、座学と、無農薬のエキスパートに会いに行くのと、研究機関にも通いましたが、最初の収穫までは理論を入れなかった。僕の強みはたぶん何も知らないことだって知っていたから。

── 1年目はそうするって自分で決めた?

古関 はい。

── そうなんだ…… すごいです。

古関 社長に任せてもらっていました。1年目は、僕、温度計も持っていなかった。普通は気温や水温や湿度を測る、ペーハーや稲の長さを測るとか。いろいろな分析をして、データをとるものだと思います。最初の年は何も測らない、感じるだけ。

── なのに案外できたんですか?1年目。

古関 案外というか……いもち病になりました。うまくいってないですよ。でも、うまくいく必要は、最初はない。いっぱい失敗して、うまくいかないのを山ほど見て、後から考えればいいやと思っていたので。杜氏のやりかたと一緒です。

── 一緒?

古関 蔵の若い連中にも、失敗していいよって。どうしてかと言うと、蔵元と杜氏が一番失敗しているから。蔵元と杜氏は、決断して、実行するから、失敗します。若い人たちや、年配の人、パートさんたちがたくさん支えてくれて、経営者と杜氏は失敗させてもらっているから、君たちにも同じ権利をあげるよって。思ったようにやっていいよ。ただ、徹底的に情報共有はしますけど。

徒弟制度が実は一番贅沢です。言葉を知らないまま、そこでずっと呼吸していられるのが徒弟制度じゃないですか。それって長期的に見ると職人の育成としては贅沢なシステムで、いわば「学びを得ました」の対極ですよね。職人としてこの先どれだけ伸びるかは、自分がどれだけ分からないか知ることができるかどうかにかかっています。何かが分かるということは、これまでここが分かっていなかった、というゾーンを知ること。だから失敗すると伸びる。そこに摂理とか、メカニズムとか、データが立ち上がってくるので。

生き物の命をいただく仕事

── 最初の自分の田んぼの範囲はどれくらいだったのですか。

古関 最初は1.7町歩を預けてもらいました(1町歩は約9,900㎡)。1.7町歩だけど、無農薬は1.7町歩のうちの3反歩(1反歩は約990㎡)だけでした。先輩の方々がうちの田んぼに集まっていて、雰囲気がいいな、と思った時、「除草剤を止めていいですか?」って言ってみたら皆さん爆笑されて。「泣くぞ、泣くぞ」って言われながら、1.7町歩のうちの3反歩だけ除草剤を止めたのが初年度のチャレンジです。バッチリ草だらけになりました。

── 最終的にお米はとれたのですか?

古関 とれました。むしろ初年度と2年目はよかったですよ。農薬をある程度使っていましたから。

── 徐々に減らして、ゼロに。

古関 そうです。僕は3年目から農薬を使ってないです。地域全体は2020年から農薬肥料をやめ、2回収穫しました。

── あっさり言われていますけど、大変ですよね。

古関 これは杜氏としての感覚ですが、実は、農業や発酵業というのは、生き物の命をいただく仕事なので、下手がやってもとれます。だって稲はおかれた環境でDNAを残すために必死に実をつけるんです。酒も一緒です。杜氏の上等な腕じゃないと酒を造れないということではなく、誰がやっても、酒になります。酵母が自分で生き残った結果としてアルコールが出る。誰がやっても生命を扱う産業はできてしまう。それがちゃんとしたものなのか、地域の皆さんの意向に沿うようなものなのか、そしておいしいのか、そこに技術や、伝統や、課すハードルの意味が出てきます。単純にとれるかとれないかだけで言ったらとれる。そういう意味では、植えてほっとけば伸びるから楽ですよ。

鵜養に来て分かったことは、田んぼはその家の歴史だということ。丁寧に大事に田んぼを育てていらっしゃるところに、僕らが、市場のニーズはこっち、オーガニックじゃないと利益が出ませんよとか、画一的なものづくりじゃなくて、ピンキリのピンをやりますよとか、理屈だけでは通用しない。皆さんに納得していただけるレベルの田んぼの姿を無農薬でどうやって作るか、すごく難しいです。その難しさと全力で向き合っているので、鍛えられています。それを大変とは思わない。大変というよりは、「畏れ」や「責任」で仕事しています。病気を出すわけにいかないし、草ぼうぼうにするわけにいかない。農薬を撒こうが、無農薬だろうが、お借りしている、あるいはお譲りいただいた田んぼを皆さんの思いを汚さないような形でちゃんと仕上げる。それは責任です。

甘さじゃない、生命感

── ご自分でとったお米でできたお酒を飲みましたか?おいしい?

古関 鵜養の無農薬無肥料の田んぼでできたお米の酒を飲んだ時に、俺の知っていた美しさは、きれいじゃなかったな、というくらいの違いでした。無農薬無肥料の味わいは、利き酒用語にないんです。前の酒の世界は、色を塗って描ける美しさだったなって。無農薬の田んぼから出たお米の酒って、味が透明なんですよ。説明すると、日本人は、甘いものだけおいしいと思っているわけではなくて、実は秋田の人はもともと知っているんですが、山菜は、オーガニックじゃないですか。あれって甘くないでしょ。むしろ苦くて、深い。山菜の味のおいしさは一言でいうと生命感。香りの鮮やかさとか、春には体に入れたいって思う。僕の米でできた酒を飲んだ時に、甘さじゃない、生命感って思いました。

── 酒造りと米作りに、一貫した考えがあり、こういう方なら米も作れる、って思うんですけど、とは言え、誰かがおいしい酒できたよ〜ってそれを飲んだ時に、やっぱり酒を造りたいな、って思わないですか?今年で何年目ですか、酒を造らなくなって。

古関 造りから離れてもう6年になるのかなあ。

── 6年……。

古関 僕の職業は杜氏です。造りたくないか、って言うと、造りたいです。でも、全部の責任をとるのが杜氏の仕事。今うちの蔵では後輩が杜氏をやっています。彼なりのやり方で全部の責任をとっています。僕がちょっと行って、やらせてくれって言ってやらせてもらえるものではないと思っています。杜氏はやりたいけど、蔵を預かって、酒を育てて、人を育てるのが杜氏なので。

── ここにできる蔵で、またやってみたいと

古関 そうです。だから必死ですよ。何年後にできるか分からないので。僕、今46歳で。娘が今度大学に行くんですけど、娘の成人式には無理だって見えてきました。娘が結婚するかどうかは分からないけど、娘が結婚する時は、僕が造った酒じゃないといやかな。

── そこまで思ってるっていうか、米作りも酒造りと思ってやられているんでしょうけど、なんか我慢してるっぽい……。

古関 我慢はしていません!

心に優しく触れる酒

── 不安はないですか?腕が鈍る。

古関 置かれた状況からどう超えてくかが自由だと思っています。僕は今、造りを忘れていっていると思います。忘れていっていると思うけど、ブランクが2年や3年で戻っていれば、やっていた時の延長線上の造りをしたと思う。今は新しいインプットが死ぬほどある。田んぼに出て、地域に出て、これまでと全く畑違いの分野でたくさんインプットしているので、その自分が、忘れた状態でどんな酒を造るのか楽しみです。今は造りから離れていますけど、この壁でどう酒造りに戻れるか考えています。仕事で自由になりたい。

── 味覚は、歳をとるとどうなるのですか?

古関 一般論でいうと、鈍りますね。

── そういうことになってるんですね。

古関 杜氏組合で利き酒をやると、年配の方は成績がよくないです。ただ、利き酒が弱いからいい酒を造れないかというと、ベテランの方に関しては必ずしもそうではない。同じ金賞でも、この人の酒すげえなっていう酒と、これはレシピの酒だな、というのは感じるものがあるんです。名人だって尊敬するような人の酒って、生命現象としてのもろみがきれいなんだと思います。発酵は、生命の現象なので、全部のバランスでそこにできる発酵の世界が、たぶん美しい。 美しい発酵をしている人の酒が、たぶん美しいんですよね。それは、味覚だけではない。蔵人の面倒から、掃除から、含めて。いろんなことを含めてトータルでお酒は出来上がるから。

── 新政のお酒の、他にはない特徴はなんだとお考えですか。考え方、造り方、売り方。

古関 日本酒醸造の近代化において、1904年に大蔵省管轄下に醸造試験所が設立されてから、日本酒は工業的生産物にいっきにシフトしました。ドイツやフランスの科学技術を導入し、純粋培養された優良酵母を全国の酒蔵に頒布するようになって、味の安定したお酒をたくさん造らせ酒税を徴収する、というのが昭和の日本です。現存する清酒酵母の中では1930年新政発祥の6号酵母が最古となります。今の社長、8代目の佐藤祐輔はだから、ページを戻しているんですよ。近代の工業になってしまった日本酒醸造を、その象徴たる新政自身が、必死にページを戻している。5代目の佐藤卯兵衛は天才だった人で、だから6号酵母が蔵から出て、今の社長は、その5代目を超えようとしている。超えるというのは、酒は生命活動である、という考え方に、巻き戻す。もう断絶しているものばかりだから失われたものばかりです。生酛きもと造りもそう、木桶もそう。鵜養の田んぼもそう。

── 古関さんは以前「美しい鵜養そのもののようなお酒」と発言されていますね。それは別の言葉だとどういうお酒ですか。ここに蔵ができて、酒造りがメインの生活に戻ったら、鵜養が表現されたような酒になりますね。思い描くのはどういう酒ですか。

古関 一言で味を表現するのは難しいけど、鵜養そのものを飲んでほしいとは思います。その年の鵜養そのものを飲んでほしい、僕らのやっている無農薬はそのためと思っていて。農薬は環境を制御するんですね。虫や微生物や菌などを抑え、環境を平準化して安定させる。無農薬というのはその年の環境そのものを表現できる。

僕は、優しいお酒が造りたいだけです。年ごとに季節の有り様が変わる、お米を作る人間も変わる、摂理も変わる、社長からは新しいアイディアが出てくる。どんな素材が目の前に来ても、それを美しく発酵させたい。究極的には、人に優しいお酒を造りたい。ごめんなさい、変なこと言って。

新政でやっていた時は、秋田県産の米を選んで、6号酵母、オーガニックという指定があって、その中から調和を取り出す、そういう仕事をしていました。鵜養でもし杜氏になれたら、ここの素材、季節、人、目の前にあるものを、どう組み合わせて取り出すかというところに杜氏としての自分の個性やセンスが出ると思っています。

この酒すごいだろっていう世界もありますけど、美しさじゃないと癒せない心の領域があったり、疲れがあったり、それにそっと手で触れるのが酒で、どういう触りかたをしたいかというと、優しく触れる酒を造りたい。

古関弘(こせきひろむ)さん
1975年湯沢市生まれ。富山県で日本酒の世界に入り、32歳で新政酒造(秋田市大町)に入社。37歳で杜氏に。新政は、秋田県産の酒米を生酛きもと純米造りで蔵発祥の「6号酵母」だけを使用し、木桶仕込みで酒を造っている。現在鵜養の酒米圃場ほじょうは24町歩に広がり(1町歩は約9,900㎡)、この地に酒蔵と木桶工房を造る予定。

写真:瀧本幹也 聞き手:熊谷新子 デザイン:谷戸正樹