クロストーク
「秋田、能登、クンストハンドヴェルク (アートと工芸)」
レポート(後篇)
伊藤俊治(美術史家)+赤木明登(輪島塗師)
進行:石倉敏明(芸術人類学者)
日時:2024年11月4日(月休) 14時-16時
会場:太平山三吉神社総本宮 斎館2階
主催:辺境地点(田村一) 共催:秋田市文化創造館

後篇(三者によるクロストーク)
●伊藤俊治さん、赤木明登さん、石倉敏明さんによるクロストーク
石倉 お二人にそれぞれ、とても重要なポイントをお話しいただきました。伊藤さんの発表では秋田という一つの場所・地域を皮切りに、日本列島の地図を書き換えていくような壮大な可能性を感じました。秋田から、非常に大きな宇宙へとつながっていく、マクロな話題です。われわれの内にある精神的な宇宙であると同時に、現実に生じた世界の歴史に秋田はどんなふうにつながってきたのかという「マクロコスモス(大宇宙)」の物語でもあったと思います。
こうした「マクロコスモス」の入り口となる秋田、あるいは環日本海のネットワークのなかの秋田という問題系に対して、赤木さんは能登の輪島に存在する一軒の小さな日本家屋が地震によって一分間という短い時間に壊れてしまったというように、非常にミクロな空間について考察されました。そこで何が壊れたのかという問題、また、それを即座に復興するというふうに決めた経緯についての話題です。これはある意味では、人が一人生きて暮らしていくこと。そして、そこで何かを作っていくという制作のための空間が、どのように外部や内部の宇宙につながっていくのかという、「ミクロコスモス(小宇宙)」についての話題でもあったと思います。

前半のお話はマクロであり、後半のお話はミクロであるという、そういう違いがありました。けれども、確かに赤木さんもおっしゃっていたとおり、お二人の考えには深いところでつながっています。それは秋田と能登が「きょうだい」としてつながっているという歴史でもあり、マクロとミクロという異なるスケールが二つの地域で絡まり合い、開示されるということでもあります。
そうしたお二人の思考と実践は、奇しくも『秋田』と『工藝とは何か』という二冊の本になって今年、刊行されました。この2冊の本はどちらも何十年もかけて作られた本だと思いますが、そういう時間軸の中で結実した、人生の必然的な成果なのだと思います。
お話を聞きながら、実際に二つの地域のつながりを実感していました。たとえば秋田には能登谷さん、加賀谷さん、佐渡谷さんといった環日本海の地名に因んだ名前が多いんですね。北前船の交易によって、地理的な「きょうだい」である能登地方、加賀から来た方が秋田には多いようです。実際にそういう歴史的な混交もあったと思います。こうした地域のつながりを踏まえて、お互いの視点の違いや共通性について伺ってみたいと思います。 では、まず伊藤さんのほうから、今、赤木さんのお話を聞いたリアクションをいただけますでしょうか。
伊藤 僕は赤木さんのお話を聞くまでほとんど無知でしたので、この小さい再生に大変感銘を受けました。災害というのは、日常の細やかな営みを意識レベルでも、無意識のレベルでも破壊してしまいますから、こんなわずかな期間で、人間の生と死のサーキュレーションも踏まえた希望に満ちた再生の試みを成しとげられた赤木さんに、まず深い敬意を表します。
第3次世界大戦が始まっているんじゃないかというようなことを先日、「ニューズウィーク」で特集していましたけれど、戦争も一つのカタストロフィーだとすると、戦争には敵がいますが、自然災害というのは敵が分からないというか、敵という概念がなくなってしまう。僕の本の中で少しカントに触れて、カントは『永久平和のために』という文章を書いているんですね。平和な穏やかな状態というのは、何ら自然な状況じゃなくて、自然な状況とはむしろ戦争のような状態であって、それ故に、平和という状態は絶えず創造され続けなくてはいけないということを、カントは言っています。
今の赤木さんの話を聞いて思ったのは、ただ前と同じように戻すだけではなくて、過去の文脈を含めながら、絶えず平和状態をつくるために創造を続けるという営みの大切さです。日常の技芸も絶え間のない生活の中で創造し続けていかなくてはいけないものであり、赤木さんのお話の中でも、その方向性を示されていました。日々のクンストを守り抜くためには、ある決断と覚悟と実践が、絶え間なく更新されていかなくてはいけないのだと強く感じます。
石倉 ありがとうございます。災害のような危機は英語で「クライシス(crisis)」といいますけれど、その語源は「クリシス(krisis)」というギリシャ語で、これは決定的なこと、転じて決めること・決断することという意味を持っています。ここから「決定的なこと」を評釈する「批評(critic)」も発生します。ですので、能登の1分間で起きた後の時間、それも非常に短かったと思いますが、1カ月のうちに復興の工事が始まり、木地師のプロジェクトとして今に至っている。これはまさに決定的な出来事の連続だったと想像します。そして、後継者を迎え入れることになる。伊藤さんがおっしゃったとおり、これは平和というものがどうやって再構築されていくのかということでもあると思います。
赤木さん、いかがでしょうか。前半の伊藤さんのお話には、大きな時間軸があったと思います。もしかしたら、今、赤木さんが実践しているような営みをずっと継承してきた先人がいたからこそ、秋田にも能登半島にも長い間、工芸が続いてきたのではないでしょうか。
赤木 伊藤先生の本を読ませていただいて素晴らしいなと思ったのは、ある意味、教科書のように情報がたくさん詰め込まれているのですけれど、でも、教科書と違って、文体が叙情的ですごく郷愁があり、大きな物語の中に巻き込まれていきます。1章読み終えて、僕はだいたい夜寝る前に読みますが、寝ると、夢の中でその物語の続きを見てしまうような、壮大さが素晴らしくて。
僕も、工藝というのはそういう流れの中にあるというか、巻き込まれているものだと常々思っています。地震というのは、本当に大きな破壊ですが、でも、僕はこの地震が破壊する自然の力と同時に、例えばここの三吉さん、荒魂の力は創造の力で、新しいものを作り出そうとする力だと思います。自然もつくり出すし、そこに生きている人間を作り出す力と、破壊する力は同じ力だなということを、この震災の中でやむにやまれずやってきて、感じることができたというのは、僕にとっては貴重な体験だったと思っています。

石倉 そのことについて、もう少しお聞きしたいです。確かに、自然災害というものは自然の力が発動する機会ですけども、それに対して、人間はある意味、無力な存在ですよね。そのときに、破壊にあらがって再建するというのは虚しさとのせめぎ合いだと思いますが、どういう形でやる気を出すのでしょうか。
赤木 宮崎駿監督に『君たちはどう生きるのか』という映画があって、難解だといわれていましたけれど、テーマは明快で、宮崎映画の基本はファンタジーの世界に主人公が入り込み、そこで大きな破壊というか崩壊が起きて、そこから最後、逃げ出してこの世界に戻ってくるという物語でした。それは実は現実の世界で起きていることそのままですが、それにあらがって、僕らは創造をしているわけです。
地震というのは、破壊のテクスチャーが強く表れたにすぎなくて、実は日常でそういう状態の中に僕らはいて、秩序や、僕らの生命そのものや、自然や、僕たちの人間の意志もその崩壊にあらがいつつ、文化・文明・工藝・建築をつくり上げていると思います。それが露わになった状態というのが震災だと。
石倉 池下さんの崩れた工房の中を見た、1月6日に放心状態になったときに、使命感を感じられたというのは。
赤木 不思議なのですが、悲しいとか大変とかつらいとか、そういう日常の感情は、魂が吹っ飛んでしまって、何が悲しいのか分からないみたいな、すごく静かな状態で。そうなると、命令ではないのですが、もうやるべきことが定まっているような。
散乱していて、雨にぬれて駄目になっちゃいそうな木地材料は片付けなきゃいけない。僕がその潰れた建物の中に入って片付けを始めたら、うちの工房の職人さんたちが、おいおい、そこに入るのかよって感じで。そんなことは関係なく、やらざるを得ない状況になってやり始めると、不思議なことが起こるんですけど、いろんな人が助けにやってくる。すごく不思議だなと思っていて。そのときに、世の中って本当にそういうふうになっているんだな、と思ったんです。
そのことを僕が別の動画で話したら、鷲田清一さんに朝日新聞の「折々の言葉」でその言葉を取り上げていただきました。そこに書かれていたのは、本当に人間にとって必要なものはちゃんと用意されていて、その用意されているということを信じることが、ものを作ることなんだということだと思います。
石倉 関東大震災の後に「民藝運動」というものが起こったときにも同じようなことが起こったのではないかと想像します。簡単に比較することはできないかもしれませんけども、多くの市民の生活の基盤が崩れ、たくさんの死者が発生した。そして、大切な物が壊れ、家が壊れ、根本から世界が揺らぐという体験をした後に、柳宗悦たちが特に工藝というモノに着目した、ある種の精神的な復興運動を始めたという経緯があります。
それは実は、日本列島や東アジア各地に継承された制作技術や制作者のネットワーク、工藝思想との出会いの旅でもありました。ある意味、人間を動かしてきた大きな使命みたいなものを再発見する運動です。柳たちの旅もそこに生まれてきたように思います。物事の再発見には、もっとも良いタイミングが求められるということかもしれません。
災害は今やどこでも起こりえますし、近年は新型コロナウイルスによるパンデミックも発生しました。また、能登ばかりではなく、気候変動を受けて近年は秋田市でも大きな水害が発生しています。そのような時期だからこそ、地域を再発見することの意識も高まっているようです。
次に伊藤さんにお聞きしたいと思います。今まで伊藤さんが秋田出身だということはあまり強調されてこなかったと思いますが、『秋田』ではまさに、ご自身の故郷としての秋田が再発見されています。その動機はどういうものなのでしょうか。
伊藤 赤木さんがおっしゃった、ほとんど廃虚の中から立ち上がる術というか、そういうことと少し関係します。その前に池下さんの粉々になった木地材料がアーカイブとして残っていたからこそ、それをちゃんと再生させなくちゃいけないんだっていうことを、廃墟が教えてくれたのでしょうか。僕は、そのあたりを、もう少し聞きたいです。
赤木 池下さんの所は、本当に古くていいものがちゃんと残っていた最後の例だったと思います。池下さんの崩れ落ちていた材料には新しい物もあるんですけど、古いのは、86歳の池下さんのおじいさんが、明治の終わりくらいに入れた材料なんですね。その材料を孫の池下さんの代に使っているわけです。そういう循環がずっと、輪島の場合は室町時代から続いていて。でも、それがもうぎりぎり最後、池下さんの時代、今の時代に途切れようとしていたのを、それを誰も使わなくなってしまっていたのを、僕がたまたま。
木地の木取りの仕方が横木取りから縦木取りに電動化とともに変わっていくのですが、誰も使わなくなってきた横木の材料が、これらの中に大量に何千個とあったのを、僕が使わせていただいて、お椀を作ることができたんです。明治40年くらいの材料がそこに残っていたということが奇跡のようだし、本当はそういう循環があったのが、もうおしまいになってしまった。そうやって消えていくものが、今、あまりにもこの世の中に多すぎるので、たまたま地震がそれを加速させて露わになっただけです。地震がなくても、紙の世界もそうだし、顔料の世界もそうだし、刷毛の世界もそうですけど、消えていってしまっていますね。
伊藤 石倉さんと、奈良県の博物館が、こんな物はいらないんじゃないかって、民芸や民具を廃棄するという立ち話をしましたけれど。カタストロフィーだけじゃなくて、地域を再生させる要は、情報でも物でも、アーカイブというか、確かな資料体というのかな、そういうものをしっかり整理された形で残しておくことが重要である気がするのですけど。石倉さん、どうお考えですか。
石倉 秋田には、大都市にあるような大きな美術館・博物館は少ないのですが、そのかわりいくつかの小さなミュージアムや資料館の活動が際立っていると思います。また、秋田市の「油谷コレクション」のような個人収集による膨大な民具コレクションの施設もあります。そうしたミュージアムは決して予算が潤沢ではないし、研究体制が整っているとも限らないのですが、実際には祭りや生活文化の重要なアーカイブとなっていて、収集した資料体を地域の文化の中で活用できるという強みがあります。
例えば、地域のミュージアムはなまはげのような来訪神儀礼だとか、地域の人形道祖神のお祭りだとか、そういった地域行事の拠点となることができます。日常の藁細工や季節行事のような繊細なリアリティーを守るためにも、資料の保管場所や、新たな価値づけのための研究も必要になってきます。そうやって地域の活動と一体になっているからこそ、「生きているアーカイブ」といえるのだと思います。また、祭りや工芸の担い手にとっては、ある意味ではその制作や活動の場そのものが、アーカイブとして機能します。
そういう意味では、この池下さんの工房というのは決して大きな規模ではないと思うのですが、木地師の活動内容というものがしっかりと残されていた。そういう意味で「生きているアーカイブ」であったと思います。赤木さんの言葉でいう垂直的な分業というものが、時代を超えたアーカイブとして、池下さんの身体の中に、あるいは木地の工房に、制作された器の中にも残っていた。だからこそ、大事な時に引き出すことができるのだと思うんです。赤木さんのプロジェクトで素晴らしいと思うのは、工藝作品を商品化するだけではなく、そうしたアーカイブを復権させようとしているところです。しかも震災遺構として再建するとか、別の場所に移転するという選択肢ではない。災害後に木地の制作環境を更新し、ソフトもハードもわずか数カ月の間に復元したという。これは本当に稀有なことだと思います。
「生きているアーカイブ」とは何かというと、「価値物の集積されたお墓」ではないわけで、生きた活動まで含めたアーカイブですよね。いってみれば、池下さんという木地師の身体が一つの大きなアーカイブであったということに尽きます。アフリカには「一人の古老が亡くなることは、図書館がなくなるのと同じだ」ということわざがありますけれど、恐らく、池下さんの体が最大のアーカイブであり、そこに最初から着目されてきた、まさに土着性と精神性というものが一人の身体の中にあるということを赤木さんが発見したということが、池下さんにとっては、幸福なことだったんじゃないでしょうか。
伊藤 人間の世界を立ち上げる基盤が剥ぎ取られるということは、人間性そのものが失われてしまうことでもあると思います。だから、世界そのものを立ち上げる基盤、赤木さんは池下さんのお弟子さんも二人見つけていらっしゃいましたけど、人と人の新しい接合といったものも含めて、その基盤を次の世代に残す仕組みと方法に、どういう創造性が必要なのかを、赤木さんは熟知なさっていると思います。このあたりに秋田が学ぶべきことがたくさんあるような気がします。
石倉 本当にそう思います。赤木さんの場合、継承活動は災害が起きてからスタートするのでは遅くて、それまでの日常の活動があったからこそアーカイブを継ぐことが可能になったと思うんです。先日、赤木さんの工房の30周年記念の展覧会でお話をさせていただいたときに、そのことを実感しました。この30年の間に赤木さんの工房出身のお弟子さんが増えて、今では全国で活動されています。そういう30年の蓄積があったからこそ、この数カ月がある。そういう意味では、伊藤さんのおっしゃるようなアーカイブというのは、今、できることの蓄積なんだなというふうに感じます。
伊藤 さきほど、雪の博士として知られる中谷宇吉郎の話をしましたけれど、中谷の師は寺田寅彦です。有名な「天災は忘れた頃にやってくる」という言葉をいった本人だといわれています。石川も秋田も、地理地形的な見地から見て、特殊な天候や環境の支配を受けています。その結果、天災が繰り返し襲ってくる運命にある場所だと思うんです。寺田寅彦は、単なる地震とか津波の警告ではなくて、文化が進めば進むほど、災害がその激烈さを増すといういい方をしています。大昔は地震とか火事とか災害が起こっても、現代のような苛烈な被害を受けなかったと。
1930年代の話ですが、戦争に対する国防策についてはすごく研究されているのに、天災に対する国防策にはほとんど予算もが割かれていない。しかもその重要性をすぐ忘れてしまうというようないい方をしています。災害に対するわれわれの根本的な姿勢をしっかり考えておいて、それに対応できるようにしておかないとと思います。だからやっぱり、物とか立体とか空間とかのアーカイブでちゃんと残しておかなくてはいけない。人間を目覚めさせる仕組みが必要だと思います。
石倉 「平穏な日常」というのが通常モードで、ごく稀に震災や災害のような「非日常の大惨事」が起こるというのはわれわれ人間の考え方です。けれども、地球物理学的な時間軸で考えると、むしろ災害は決して特殊な出来事とは言えません。これからはさらにその件数が増えるとも言われている。私たちは「間災害期間(インターカタストロフ)」を生きています。カタストロフ(災害)というのは決して起きてはならないことではなく、リズムのようにある種の周期性とともに起こる、必然的な現象なんですよね。決してこれを起こらないようにすることはできない。だからこそ、そのリズムの中でどうやってわれわれが生きていくかということは永遠の問いです。次の災害に備え、今起きている状況を祝福し、生き抜くということ。ここに、お祭りの根拠があると思うんです。
つまり、生きるということは決して容易でも、当たり前のことでもない。だから、巡ってゆく季節の中で他者とともに生きること、生き残ることを祝福する。そして、死や災害といった、どうしても人間にコントロールできない原理でこの世を去った先人に対して、祈りを捧げる。あえて簡単にいってしまうと、宗教やお祭りというものは、この「祝福と祈り」の二つに関わることだと思います。この「祝福と祈り」に、輪島塗の器が使われていたということは、大きな意味があると思います。つまり、ハレとケというのは分断されていなくて、一つにつながっているということです。
9月に北海道の白老に行ったときにウポポイ(民族共生象徴空間)でアイヌの人びとの祭事についての再現展示を見ました。アイヌの方々がお祭りをするときの細部を見せていただいたんですけども、明らかに和人の工芸であるきれいな漆塗りの器を使われていて。職員さんに「これはどこからアイヌの社会に入ったんですか」と訊くと、「北前船で輪島から来たんです」ということをおっしゃいました。もしかしたら、赤木さんの先輩が作ったものも、アイヌの方々がイオマンテなどさまざまなお祭りで使っていたかもしれないです。そういう交易こそが、実は平和や、社会と社会との関係をつくっていったという意味があると思うんです。赤木さんは、お祭りというものをどんなふうに考えていらっしゃいますか。
赤木 アイヌ椀の中で一番多いのは京漆器、次が輪島塗ですね。それは北前船で運ばれていったものなんですけれど、近江商人が仲介をしていたということです。先ほどお話ししましたけれど、輪島塗のお椀で僕は自分がオリジナリティーがないことが自慢で、古くて江戸時代とかもっと古いものの写しを作っていました。でもそれをどんなに写そうとしても物足りなかった。それはなぜかというと、それが何のために作られたかという目的をきちんと理解をしてなかったからだと思います。
輪島塗のお椀というのは、例えば能登には「あえのこと」という田の神様を秋に、冬になる前にお迎えするお祭りがあって、そのときに神様と一緒に食事をするための道具だったわけですよ。法事のときは、近しかった死者と生きている人が、共に食事をするための道具だったわけです。そういう精神性を体現したような道具であることを忘れて、単なる美しくてきれいな自然素材でできた器に今はなってしまっている。その精神性みたいなものを腹の底から分かってないと、本当の写しはできないということが分かってきて、そういうものが祭礼の中にも、いろんな民間の行事の中にも保存されている。そこを考えながら、工藝では、物を作っていくということが重要だなと思っています。
石倉 能登のあえのことや、秋田のなまはげでも漆塗りの器が使われてきました。赤木さんは近年、どんどん精神的なものを深めていくといいますか、ある意味ストイックな方向に向かっているように感じます。面白いのは、お弟子さんたちはかなり自由に広がっている感じがすることです。赤木さん自身は原点に回帰して、地域での垂直的な分業を意識されている。だからこそ、全国のお弟子さんたちがそこから活動を展開できるのだと思います。つまり親分がちゃんとしているから、弟子たちはいろいろバリエーションを持って広がっていける。
伊藤さん、いかがでしょうか。この太平山三吉神社には子どもの頃からいらっしゃっているということですけども、秋田にはたくさんのお祭りがあって、土崎にもお山のお祭りがありますね。秋田のお祭りを、今、どんなふうに再発見されているのでしょうか。

伊藤 石倉さんがさっきおっしゃったように、東日本大震災以降、祝祭や儀礼を見る目は、日本人の中でも大きく変わってきたと思います。秋田の本を書いたのもそうしたことと関わっています。21世紀に入ってから多くカタストロフィーが起こり、自分が寄って立っていた世界が急流のようになって、本当にそこに立っていられるのかということを、日本人が問い直さざるを得なかったのが、この20年だったのではないでしょうか。
自分が年を取ったことも大きい要因ですね。18歳で僕は秋田を出ましたが、母親が死んで、父親が死んで、兄が死んでという形でどんどん死者が多くなっていき、そういう人たちが何か特別なレスポンスを求めているような気がします。そういう呼び掛けを感じていることが、この本を書く動機になっているかなとは思います。
特に、石川直樹さんの秋田の写真を見たことが大きい。彼は日本海沿いにずっと来訪神の撮影を続けていて、すごく精力的に動いている。どこでも瞬時に撮影しにいくタイプの人間で、撮ってきた写真も非常に興味深いし、僕が全く知らないところを掘り起こしている写真だった。そういうことも強く本の執筆の動機になっています。秋田の祝祭に関しては、その多様性と奥深さが想像以上でした。秋田の修験についても、ただ山で修行するだけではなくて、たくさんの芸能をつくり出してきた源でもある。そういうことも含めて、秋田を見直したいということが、本を書く動機としてありました。
石倉 ここ10年くらい、地方創生とかローカルデザイン、ノマドワーカーといった流行語が次々に生まれました。今はインターネットを使って便利にどこでも働ける。地方の良いところを気軽に堪能できる、みたいな、割と軽い意味で移住や移動を促す考えに後押しされて、地域に移住されてくる方が増えていると思います。しかし、どうやってその地域に接続していったらいいのか、分からないまま途方に暮れている若者もたくさんいます。自分がどうそこに根を下ろすことの必然性を欠いたまま、根なし草のように地域を移動していく人も少なくありません。移住者になることと、その場所にルーツを再発見するということは、全然違う生活態度になるわけです。
伊藤さんの『秋田』は、そういった「日本中どこでも良い」というノマド的な態度ではなく、秋田であることの必然性が、一つの大きな物語として流れているような描き方をされています。ここにはハレとケの大きな流れを伴った、世代を超えた生命のうねりのようなものが描き出されていました。このことは、赤木さんの『工藝とは何か』に収められた深々とした対話にも通底すると思います。赤木さんも故郷の岡山から東京に進学・就職して、輪島に移住されたわけですね。大学では哲学を専攻されていて、木田元先生の所でハイデガーを読まれていたと聞いたことがあります。卒業後は、編集者として働いていた時期もあった。そして、人生のある地点で輪島に移られました。輪島のような歴史のある土地で、よその土地から来て、よそ者として、その場に根を生やすということはなかなか難しいこともあったと思います。それはどんなふうに意識されていたんでしょうか。
赤木 僕は伊藤先生の本を読ませていただいて、二つの視点を発見しました。もちろんご自分のお生まれになった土地で生きてきた人の視点と、あとは「まれびと」という外からやってきた人の視点と両方が入っていますね。僕は、能登に住み始めてもう35年経ちますが、いまだに旅の人といわれるんですね。要するに、よそ者という意味ですけれど。それが僕は残念なことかというと、そうではないなと思っていて。この本の冒頭で芭蕉の話が出てきますね。芭蕉の『笈の小文』の発句で、「旅人や我名よばれん初しぐれ」、ちょうど今頃の句ですね。自分がよそ者と呼ばれることに誇りを持って私は生きているんだと。しぐれが降ってきたという句で、非常に好きな句の一つです。僕も自分がよそ者であるということに誇りを持って生きていきたいなと思っています。
「小さな木地屋さん再生プロジェクト」というのは、何も考えず、そうなってしまっただけですけれど、それも僕がよそ者であったからこそ、できたことではないかなと思っているんです。だから、これからもずっとよそ者のままでいたいなと思っています。石倉先生も同じくですよね。
石倉 僕が10年ほど前に移住してから、人類学者としてたくさんの秋田のお祭りや季節行事を拝見して、非常に土着的な、面白い地域だなと思ってきました。ですが、やはり僕自身もよそ者のままで、秋田の人にはなりきっていないと感じます。
それでも、秋田にはよそ者、「まれびと」を受け入れるユニークな文化があることを実感します。休みの日には子供を連れてお祭りに通ってきましたが、一度も排除されたことはありません。海に向かって開かれた秋田市周辺は、文化人類学的には「平野宇宙」と言われるような海と川を結ぶ舟運を中心とする都市文化に属します。目の前には海があり、背後には山地が広がり、その二つを大きなかわが結んでいるというタイプの地方都市ですね。人類学者の米山俊直によればこれは「平野」という地勢によってコスモロジーを形成するタイプの文化を持つ風土だ、ということになります。
秋田には横手盆地や鹿角盆地のように、米山さんがいう「小盆地宇宙」というものも存在します。小盆地宇宙は、遠野盆地や奈良盆地のような、四方を山に囲まれた城下町が典型的な例です。しかし、その閉ざされたコンパクトな小宇宙に海と山を結ぶ街道が走り、川が通ることによって技術や知識が集積されてゆく。「平野宇宙」という開放的で海民的な文化に対して、「小盆地宇宙」という山地民的で深い精神性を持った文化が互いに交易によって結ばれてきた。全国に200ほどの小盆地宇宙と、数十の平野宇宙があって、日本文化は、実はこの二つのコスモロジー間の交流で出来上がっているんだというのが、米山さんの提唱した有名な「小盆地宇宙論」という学説でした。
しかし、この理論には、島や半島、そして山地という存在がほとんど触れられていないという大きな問題がありました。祭礼や工藝のことを考える時、このことは欠かすことのできない視点です。秋田や金沢や富山も、ある意味では平野として外に開かれた、外から来たものを受け入れるのに適した地勢です。そして盆地には確かに技術と資本が蓄積された高度な文化が発展しやすい。それでも、日本という群島には、さまざまな小さな盆地ではない形の小宇宙がある。
つまり、島や半島という、閉じつつ開かれているようなタイプの小宇宙があるのです。能登半島は日本海側最大の半島であって、岬であるわけですね。岬の付け根には港があるということは普遍的なことだと思うのですが、金沢側も富山側もやはり港として発展していく。そして、岬はある意味、深い精神性を持った非常に根源的な芸能が残りやすい。あるいは、宗教儀礼なんかも残っていく。これも伊藤さんが書かれているとおりです。男鹿半島と能登半島のきょうだい関係は、このように半島と港の関係によって規定される「小半島宇宙」としてのコスモロジーと言えるかもしれません。

伊藤 男鹿半島ももともと島だったという説や、雄物川と米代川の土砂が排出されて半島になったという説がありますし、やっぱり島と半島は想像力を刺激するというか、いろんな流れが入り込んでくる。環日本海文明にとって、島と半島は特異ポイントです。そこからたどっていくことによって、見えないネットワークが浮上していくということが面白い視点だと思うし、今回もそういう視点を入れ込みながら書いてみました。
今年、森美術館で「アフロ民藝」という、シアスター・ゲイツの初めての個展が行われました。作品制作とは別に、彼はシカゴのサウスサイドのスラム、自分が生まれた所のスラムの再生を目指すプロジェクトをずっと続けていています。例えば、10年以上かけて50棟の廃虚ビルを改修して、そこを文化施設に変貌させていくようなプロジェクトを今も続けています。そこで展覧会とか住居を提供したり、スタジオを造ったり、ワークショップをやったり、そういうイベントやサービスを提供して、どんどん膨らませていっている。
その多方面の活動の核心は、アーカイブの思想なんですね。彼はアーカイブアーティストであり、アーカイブすることを自分の作品にしてきた。もともとは愛知の常滑で4年くらい修行し、陶磁器を作っていた人でもあるんですね。今でも常滑に行って、作品を作っている。食器や食文化に関心を持っていて、日本風の器でアメリカ南部のソウルフードを食べさせることが、自分にとって大きい意味があるという。パフォーマンスをやったり、ミュージシャンでもある。その彼がこういったんですね。「日本の工芸を見ていると、神を見ているような気になる」。「人々の心の中にある神のような創造性、それが日本の工芸にはあって、そういうものに自分は非常に敏感に反応してきた」。赤木さんのさきほどの漆もそうですけど、やはりそういう神聖というか、ディヴィニティをとどめるものって、なかなか他には見つけがたいと思うし、「日本的霊性」といういい方をしましたけれど、僕としては「日本海的霊性」というものに対して、反応しているということに気づきました。
石倉 僕もシアスター・ゲイツ展を見て非常に面白いなと思いました。アートの手法を取り入れた工芸作家というよりは、アフリカ系アメリカ人の現代美術として民藝にアプローチしているユニークな作家です。先日、ちょうど森美術館での展覧会と同時期にシカゴに行く機会があったので、彼が生まれ育ったシカゴの南部にも行ってみました。その辺りのアートセンターや本屋さんに行くと、シアスターが復興した場所がいっぱいあるんですね。つまり、もうつぶれちゃった本屋とか廃棄された工場のような場所を、彼がアクティビストとして復活させていく。そういう市民運動家としてのゲイツと、アーティストとしてのゲイツは彼の活動の中で渾然一体となっています。その意味でも、赤木さんが行っているような社会的意識と制作者の意識があると思います。彼にとっては、一つの器を作り直すことと一つの空間を建て直すことは同じ意味を持っているのです。赤木さんの能登での活動でも、まさに大工さんと工芸家が一緒に空間を建て直している。そういう意味では一つの町を作ることや家を造ることが、一つの身体や作品を作り直すこととパラレルな関係を持っています。
しかもシアスター・ゲイツは、彼自身アフリカ系アメリカ人としての精神的な探求を行ってきた人です。彼にとってキリスト教というのはいわゆる西洋の植民地主義的なキリスト教ではなくて、アフロ・アメリカンの宗教や土着的なアニミズムとも一緒になった、ハイブリッドな精神性なんですね。だから、彼はシカゴ南部の壊れた教会で歌った作品もあるんですけども、それもゴスペルとかブルースといったアフリカ系アメリカ人の霊性表現を土台にした表現になっています。そういう意味では、彼が日本で何を見たのかというと、一つの器や一人の労働歌の中に、アフリカからアメリカへと渡ってきた自分の祖先が垂直的に持ってきたものとパラレルなものがあるということ、これと同じことを日本列島というハイブリッドな場所で発見したんだと思うんです。
ゲイツの作品を見て、僕は岡村吉右衛門が書いていた「プロト民藝」という面白い概念を思い出しました。岡村という染色家で柳宗悦の弟子でもあった人ですが、晩年にはずっとアイヌの着物の研究をしながら、自身の作品を作り続けました。彼の考えによれば、民藝運動というのは、日本人だけのものではないのです。それは、アフリカに発生した人類の歴史の中に生まれたプロトタイプ、つまり原型としての民藝というものの一つの発現に過ぎないということになります。つまり、民衆的工藝というものは人類普遍の創造性で、世界中に発現する余地があるというわけです。それを彼は民芸のゼロポイントとして、「プロト民藝」というふうに名付けているわけですが、そういう意味では、赤木さんがやってらっしゃることは、まさにプロト民芸があるからこその輪島塗ということになると思うんです。
赤木 シアスター・ゲイツ展は見たかったんですけど、時間がなくて行けなかったのは残念です。さっき伊藤先生がおっしゃったシアスター・ゲイツの言葉と同じようなことをレヴィ=ストロースが輪島に訪ねてきたときに話をした記録が残っています。1977年にレヴィ=ストロースは3日間だけ輪島に滞在をして、輪島の漆職人世界の文化人類学調査を行っているんですね。その報告が『月の裏側』という本の中に少し残っています。そこで書かれているのは、ヨーロッパ人にとっては、労働は神から与えられた罰だけれど、日本の職人にとっては、労働によって神とつながることができているという話が書いています。それでレヴィ=ストロースがいろんな職人さんと輪島で出会って、その職人さんが語っているレヴィ=ストロースの言葉というのを僕はいろいろ聞いているんですけど、最後に輪島駅にレヴィ=ストロースを送っていったときにレヴィ=ストロースがいったのは、保守的であれと。原点に戻れという話だったそうです。
それは大拙がいったように日本的霊性をきちんとよみがえらせるということだと思うので、そういう視点に立ってもう一度、日本の工藝とか芸能・祭りの原点に返るという作業をこれからしていく必要があると思うんですけれど、石倉先生、伊藤先生が秋田を中心にしていただければ、僕は能登からはせ参じて、その輪の中に加わりたいなというふうに思っています。
石倉 たまたま今年この2冊の本が出たという考えることもできますが、別の見方をすれば、出るべくして出たと考えることもできると思います。どちらもある意味、僕は大きな意味での思想的なルネサンスだと思うんです。二冊とも、まさに人類の普遍的なプロトタイプに返れという共通する視点があり、しかも同時代の問題や可能性に開かれた本でもあります。そして、そのプロトタイプとは何かというところで、まさにレヴィ=ストロースがいっていたような、先住民的な「野生の思考」が現れてきます。そこに立ち戻ること、つまり自分の足元にあるものを掘れということを教えてくれる。
この2冊は、要するに地域に深く根ざしているとともに、同時代的な感性や視点によって世界的に広がっているんですね。伊藤さんの本の中にカントと同じ故郷を持つハンナ・アーレントの話が出てきますけど、彼女は、世界とは故郷であると語っています。その世界を愛することが哲学であるということをいっていますが、先週、イギリスの人類学者ティム・インゴルドが、金沢での講演で同じことを引用して話したようです。その後、実は新潟に行って、大地の芸術祭を見て、秋田公立美大卒業生の永沢碧衣さんの絵を体験したりしたようです。面白いことに、レヴィ=ストロースとインゴルドという世代の離れた人類学者が、全く違う時代に日本に来て、同じようなことをいうわけですね。アーティストにしろ、工芸をするにしろ、その場所にある世界を愛するということを。なぜ世代を超えた人類学者がそういうことをいうのかというと、われわれの足元にそれだけ豊かなものがあるということだと思います。ぜひ、この環日本海のルネサンスを続けていけたら。
赤木 でも、一方で急速に世界が滅んでいるということを自覚しないと駄目ですね。
石倉 そうですね。戦争と災害はいつわれわれに降りかかってくるか分からないという時代ですから、だからこそ、カントの平和ではないですけれども、永続的な構築が必要なのかなと思います。少し時間が過ぎましたけれども、トークという形では、これで最後にさせていただきたいと思います。伊藤さん、赤木さん、何かありますでしょうか。
赤木 ちょっといいですか。最後に、地震の復興について少しだけ。今、輪島では、どんどん古い建物が壊されているんですね。木造の建物というのは、半壊・全壊になっていても、潰れていなければ建て起こしして、先ほどの小さな木地屋さんと同じように、再生することができるんです。でも、そうならずに、ほとんどの建物が公費解体され、更地になっているんです。
それはなぜかと調べてみると、公費を私財に投入してはいけないという原則があるんです。ですから、壊れた建物を解体するには、補助金が出るんですけど、壊れた建物を修繕する補助金がないんですよ。だから、みな、こぞって解体して、自分が住み慣れた家を失い、町並みを失い、景観を失ってしまっているんです。
東北の人にインタビューをすると、地震でいろんなものを失ったけれど、その後に津波を防ぐために大きな防波堤ができて、山を削って上に町が移動して、新しい町並みができたけど、そこはもうどこか分からない。そっちの喪失感がもっと大きかったという話をよく聞きます。これから日本中でそういう二次災害が起きていくと思います。能登もまさに、これからみな更地になって、日本のどこか分からない、交換できるような町並みに変わっていく。そこは法律を変えないと、もうそういうものは残せない状況になっていると思うんです。
僕、あまり政治的なことはしたことがなくて、どこの党にどういう話をしていいかよく分からないんですけれど。でも、例外があって、伝統的景観保存地区というのがあるんですね。輪島市内では黒島っていう北前船の港は、それを保存するために公費を私財に投入することができて、その地区に限っては2000万円を上限に、9割まで補助金が出て修繕することができるんです。それを拡大できれば、もっと壊れた家を修繕するために、補助金を出すことができる。そういうふうにこれからみなで考えていかないと、どんどん日本の美しい建物や景観が失われていくと思います。ですから、そういうことをぜひ、皆さん、一緒に考えていっていただければいいなというのが、僕の願いです。
田村 赤木さん、雨の影響というか、雨の後はどうなっていますか。
赤木 それが、地震よりたちが悪いというか、ひどい状態で。地震の後、片付け、いろんな所に手伝いに行くんですけれど、水害はどろどろで片付けるのも大変だし、捨てるしかないから、さらにたちが悪いですね。それと地震は面で被害を受けているので、平等にみんな被害を受けていますが、水害はピンポイントで、あちこちに行くと、全く大丈夫な所とめちゃくちゃな所がまだら状にあるので、連携しにくいです。能登はまさに立ち上がろうというときに水害が起きたので、とても悲惨な状態です。
田村 赤木さんのお家の辺りとか、山のほうのオーベルジュ「茶寮 杣径」のあった場所とか、どんなものですか。
赤木 うちは悪運強く、相変わらず被害から逃れているのですが。この本『工藝とは何か』は、大手の出版社が出さないような装幀で作りたかったので、自分で出版社を立ち上げて作った本なんです。出版社は「拙考」という出版社で、そこの倉庫が浸水をして、幸いなことにこの本は大丈夫でした。でも僕の新潮社とかから出ている本は、みな水に漬かって駄目になりました。でも、ひどい所は、本当にやっと地震から立ち上がって開店したばかりの飲食店が、また閉店しています。皆さん、能登のことを忘れずに、ボランティアも大切ですけれど、能登を見に来ていただくだけでも嬉しいです。
●しまいに

田村 僕は2011年の3月11日は、栃木県の益子にいました。益子もすごく揺れたんですよ。でも、秋田は大丈夫かって電話がかかってくるんです。秋田は大丈夫だったのですが、益子は、窯が崩れ、大谷石の塀が倒れ、地割れもあって、ひどい状況でした。
僕は、揺れている最中、1983年に起きた日本海中部地震のことを思い出していました。あれがあったから、自分は割と平静を保てたというのがありました。揺れたあと、益子のことが、全然伝わってないなと思いました。僕は夏に秋田に帰ることがすでに決まっていたので、残りの半年は益子に対してお礼奉公をしようと思いました。企業を訪問したりラジオで寄付を募ると助けてくださる方々がいて。それまで、益子での自分の評価というのは、よそ者で、けんかっぱやくてダメなやつみたいな感じだったんです。だから、最後にそういう揺れが起きて、益子に対して、少しだけ役に立てたかなと思っているんです。
秋田にいつかは帰りたいなと思っていました。秋田に帰りたいと思った理由は、やっぱりここのお宮があったからだと思うんです。学生時代に伊藤さんの本を読んでいたことが、30年経ってまた戻ってきているのも、嬉しくて、足元にここの宮があったから、こういう会もできているんだなと思い、じいちゃんのことを考えながら、ずっと話を聞いていました。
叔母たちにじいちゃんの若い頃の話を聞くと、だいぶ愉快な人だったようで、きっとこういう場が大好きでした。だからこそ、平野政吉氏だったり、勝平得之氏だったり、ブルーノ・タウト氏が来たんだと思うんです。なので、今日、じいちゃんも喜んでいるんじゃないかと思います。こういうことは続けてきたいなと思っています。何かあればまた足を運んでみてください。本日は、皆さん、ありがとうございました。
Profile
伊藤俊治:
1953年秋田県生まれ。東京大学文学部美術史学科卒業、同大学院人文科学研究科修士課程修了。東京藝術大学名誉教授。京都芸術大学大学院教授。専門の美術史・写真史の枠を越え、アートとサイエンス、テクノロジーが交差する視点から多角的な評論活動を行う。『ジオラマ論』でサントリー学芸賞を受賞。展覧会企画に「日本の知覚」(グラーツ)、「移動する聖地」(ICC)、「記憶/記録の漂流者たち」(東京都写真美術館)など。著書に『写真都市』、『トランス・シティファイル』、『生体廃虚論』、『電子美術論』、『バリ芸術をつくった男』、『増補 20世紀写真史』、『バウハウス百年百図譜』ほか多数。新刊『秋田 環日本海文明への扉』(写真:石川直樹)。
赤木明登:
塗師。1962年岡山県生まれ。編集者を経て、1988年に輪島へ。輪島塗の下地職人・岡本進のもとで修業、1994年独立。以後、輪島でうつわを作り各地で個展を開く。「写し」の手法を用い、古作の器を咀嚼した上で造形と質感を追求して作る器は、洗練されていながら素朴な暖かみを持つ。著書などを通じ普段の暮らしに漆器を使うことを積極的に提案している。著書に『美しいもの』『名前のない道』『二十一世紀民藝』など。拙考編集室を立ち上げ、新刊『工藝とは何か』(堀畑裕之との共著)を刊行。https://www.sekkousm.com/
石倉敏明:
芸術人類学者。1974年東京都生まれ。秋田公立美術大学「アーツ & ルーツ専攻」准教授。シッキム、ダージリン、カトマンドゥ、東日本等でフィールド調査を行ったあと、環太平洋地域の比較神話学や非人間種のイメージをめぐる芸術人類学的研究を行う。美術作家、音楽家らとの共同制作活動も行ってきた。2019 年第 58 回ヴェネチア・ビエンナーレ国際芸術祭の日本館展示「Cosmo-Eggs 宇宙の卵」に参加。共著に『野生めぐり 列島神話の源流に触れる12の旅』『Lexicon 現代人類学』など。新刊『〈動物をえがく〉人類学ー人はなぜ動物にひかれるのか』(山口未花子、盛口満との共編著)。
田村一:
陶芸家。1973年秋田県生まれ。早稲田大学大学院修了後、東京で作家活動を開始。2002年に栃木県益子町に拠点を移し制作。2011年より秋田県に戻り太平山の麓の工房で作陶に励みながら、「ココラボラトリー」(秋田)「白白庵 」(東京)などでの個展や、グループ展で作品を発表している。九州・天草の陶土を使用し、近年ではグレーの粘土や信楽の透光性のある土「透土」もブレンド。中国古陶の青磁や現代作家の青白磁に影響を受け、ガス窯を還元焼成で焚く。
撮影(会場)|牧野心士(秋田市文化創造館)
構成|熊谷新子(秋田市文化創造館)
掲載日|2025年3月6日